『十字架』感想|十字架を置く場所

読書感想
執筆者: WordPressユーザー名 | カテゴリ: Uncategorized

誰一人救われなかった。

いじめた側はもちろん、

命を絶った生徒も、

残された遺族も、

そして傍観者の生徒も。

終わらないのは、

事件ではなく罪悪感だった。

いじめを描いた物語は多い。

けれど、これは【その後を生きる人たちの話】。

自死したフジシュンは、 終わりのないいじめから。

遺族は、 気づけなかった・救えなかった後悔から。

傍観者は、 何もしなかった・できなかった後悔から。

いつまで喪に服せば良いのか。

日々の小さな楽しさでさえ、 それを感じた瞬間、胸を締め付けられる罪悪感。

それぞれが、 それぞれの十字架を背負い、 救われないまま生き続ける。

これは、いじめを苦に自ら命を絶った中学生と、 彼の遺書に名前を書かれた四人の同級生、 そして遺された家族を描く物語。

事件そのものよりも、

その後を生きる人々の時間に焦点が当てられている。


傍観者は「逃げた人」なのだろうか

私は中学生の頃、 いじめを仲裁したことがある。

けれど今思えば、 それは勇気があったからではなく、 ただ環境に恵まれていただけ。

周囲の友人。

先生。

空気感。

もし、あの時の友人が違っていたら。

先生が違っていたら。

私が標的になっていた可能性も、

十分にあったと思う。

だから今、

自分の子どもたちが

同じ状況に置かれたとしたら——

私は、

傍観者になることを責められない。

むしろ、

いじめの標的になるくらいなら、

親としては、傍観者でいてほしい。

それは綺麗事ではない。

「正しさ」よりも、

「生き延びてほしい」という願いだから。

けれど、

この物語はその選択がもたらす

“その後”を、容赦なく描く。


幸せを感じる資格

遺族も、傍観者も、

その後の人生で

小さな幸せすら感じてはいけないような

制約を課される。

喪に服さなければいけない期間は、

いつまでなのか。

それに終わりはあるのか。

自死を選んだフジシュンは、

学校が地獄だったとして、

家庭に小さな幸せや喜びはなかったのだろうか。

けれど、

そんなことすら考えられなくなるほど、

いじめは人の魂を削る行為なのだと思う。

だから正直、

主犯はもっと酷い目に遭ってほしかった。

それでも、

そうならないのがこの物語のリアル。

傍観者は、

助けなかった後悔と、

何もしなかった自分への怒りを抱えたまま、

その後の長い時間を生きることになる。

いじめられた側だけではない。

いじめた側だけでもない。

遺族だけでもない。

傍観者もまた、

重すぎる十字架を背負わされる。


森の墓地という「赦しではない場所」

初めて知った場所で、

思わず検索した。

画面いっぱいに広がる景色を見て、

息を呑み、涙が溢れた。

そこにあったのは、

赦す/赦される、ではなく、

ただ

「静謐」だけがある空間。

怒りは、

ここで静けさに変わり、

問いは、

沈黙に変わる。

森の墓地は、

断罪しない。

答えも出さない。

すべてを、

静かな祈りに帰す場所。

傍観者も、遺族も、

この先を生きていく。

生き残った人間が、

幸せを感じてはいけないと、

誰が決めるのだろう。

ここでは誰もが一度、

背負ってきた十字架を、

そっと地面に置いていい気がした。


【森の墓地については、ストックホルム市公式サイトを参照】
Skogskyrkogården 公式サイト


「十字架を背負いながら生きる」とはどういうことか。 この物語の光景、スコーグスシュルコゴーデンの静けさを想像しながら、ぜひ手に取ってみてほしい一冊です

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