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この小説は「読む時期」によって受け取り方がかなり変わる気がする。
- 虚構が現実を侵食していく不穏な物語が好きな人
- 兄弟や家族の愛と支配の境界について考えたい人
- 読み終えたあとも長く余韻に浸りたい人
あらすじ
物語は、文学界で「最後の文士」と崇められた小説家・須賀庸一の葬儀の場面からスタートする。 家に帰ると、父が執筆したとされる原稿が封筒で届く。その小説のタイトルは『文身』。それを読む娘の視点から物語は始まり、第一章からは庸一自身の視点で生い立ちが語られる。
昭和38年。兄・庸一(高校生)と弟・堅次(中学生)は、理不尽な父親に嫌気が差していた。「こんな家」を出て行くため、弟・堅次はある計画を企てる。 それは弟・堅次が偽装自殺をし、この世からいなくなったことにして、高校を卒業した兄とふたりで東京で暮らしていくというものだった。
いなくなったはずの弟が小説を書き、兄が自分の名前で発表する。文章を代わりに書く分身。ゆえに『文身』。 そして弟が書いた私小説の主人公は「破滅的な男」だった。酒に溺れ、女にだらしなく、暴力的な無頼の文士。 その私小説を「自分の物語」として発表し続けた兄・庸一は、やがて小説の通りの人生を歩み始める。
「私小説」という仕掛けの恐ろしさ
この小説の核心は、「私小説」というジャンルへの深い問いかけだのように思う。
面白い私小説といえば、車谷長吉や西村賢太の描く、現実と虚構の入り混じったかなり激しい「普通じゃない」生活。 自分では絶対に送れない人生、送ろうとも思わないけれど、のぞき見してみたくなる。そんな物語だろう。
読者が私小説に求めるものとは何か。 「この作家は本当にこんな生活をしているのか」というゴシップ的な好奇心と、「リアルな人間の内面を覗き見できる」という文学的な欲求が絡み合っている。
この小説はその構造を逆手に取る。弟が書いた「フィクションとしての私小説」を、兄が「自分の実体験」として発表する。 読者は「これは須賀庸一の本当の体験だ」と信じて読む。そこでその信頼に応えるように、兄・庸一は小説の中の自分を「生きる」ようになっていく。
お酒に溺れ、女にだらしなく、破滅的に生きている男の小説だった。 小説が先にあり、真面目に生きてきた兄は、弟の描いた破滅的な生き方をなぞるようになる。
「書かれた自分」が「生きる自分」を侵食していく。
これが怖い。虚構が現実を呑み込んでいく過程を、この小説は丁寧に描いていく。
兄弟の関係
読み進めながら、ずっと「堅次は何者なのか」を考えていた。
成績優秀な中学生の弟と、落ちこぼれの兄。親の期待は弟に集中し、兄は何をやっても認められない。どころか、弟の分まで父親の暴力を引き受ける役割を背負っている。 普通なら兄は弟に嫉妬したり憎んだりするだろうに、兄の弟への不思議なほどフラットな姿勢が、その後の運命を決めた。
庸一はなぜ堅次を憎まないのか。それどころか「弟を信じていれば間違いはない」と思い続ける。 この兄弟の関係の非対称性が、物語の最も不穏な部分だと思う。
堅次にとっての庸一は何なのか。愛か、執着か、ただの道具か。
この問いに対して、この小説は明確に答えを出してくれない。 堅次が庸一を操っているように見える場面がある。でも一方で、堅次が庸一なしでは生きられない依存の構造も透けて見える。
愛と支配と依存が混ざり合った兄弟関係。そこには、家族というものの歪さや逃れられなさが映し出されている気がする。
兄の分身としての弟。弟の分身としての兄。父の血を引く分身としての娘。
この「分身」という言葉が、この小説全体を貫くテーマだと感じる。 人は本当に「自分」として生きているのか。誰かの期待や物語に沿って「生かされている」のではないか——という問いが、この一言に凝縮されている。
タイトル「文身」の多重の意味
「文身」という言葉は、辞書的な意味では「刺青」のことだ。 消せない身体の刻印であり、江戸時代的な意味でいえば刑罰のしるしでもある。 弟を背負うことになった兄の罰。そんな意味にも読める。
タイトルの「文身」には、少なくとも三つの意味が重なっている。
- 「弟が書いた文(ふみ)が、兄の身体に刻まれた」という意味
- 「刺青=消えない身体の印」という意味
- 「罰のしるし」。弟を世の中から消し、その代わりとして生きることを引き受けた庸一への、静かな呪い
弟の書いた小説が兄の人生に刻印のように入り込み、消えなくなる。 庸一が選んだ、あるいは選ばされた人生は、取り消しのきかないものとして刻まれる。 読後に改めてタイトルを見返すと、その多重性が胸に迫る。
「虚構と真実」をめぐる、物語を書くという執念
読み終えてから考えていたのは、堅次という人物そのものよりも、「書く」という行為の恐ろしさだった。
この小説では、弟は兄を殴ったり脅したりして支配するわけではない。ただ物語を書くだけだ。それなのに、兄は少しずつ小説の中の人物として生き始める。
物語は人を変えることができるのか。
読者として本を読むときは当たり前に受け入れている問いだが、『文身』はそれを極端な形で突きつけてくる。堅次は兄の人生を書いた。そして兄は、その物語の通りの人生を歩んでいく。
そこにあるのは作家の野心というより執念に近い。兄を理解したい。兄を失いたくない。兄を自分の物語の中に留めておきたい。そんな願いが、文学という形を取って現れているように見える。だから堅次という存在は恐ろしい。けれど同時に、美しくもある。
この小説が最も深く問いかけているのは、「どこまでが虚構で、どこからが真実なのか」ということだ。
岩井さんの「虚構と真実の境目に迷い込んでみませんか?」という言葉通り、まんまと迷い込んでしまった。どこまでが虚構なのか。いったい何が真実なのか。今でもわからない。
この感想が多くの読者に共通するのは、物語の構造そのものが「どちらともとれる」ように設計されているからだろう。弟は本当に死んだのか、生きているのか。小説に書かれた出来事は実際に起きたことなのか、それとも弟の創作なのか。兄は小説の主人公として生いたのか。それとも、小説が兄の人生を記録したのか。
弟の堅次のは、本当に死んだのかどうか分からない。遺骨がない。虹に骨なんてない。でも「ある」と言って、存在しないはずのものの「かけら」である「虹の骨」を兄に渡している。このモチーフが本当に美しい。
存在しているのか分からない弟が、兄の人生に確かな重みを残している。虚構なのに人生を変えるほどの重みを持つこの物語も、どこか虹の骨に似ている。この『文身』は兄弟の物語であり、家族の物語であり、そして何より「書くことに取り憑かれた人間」の物語だったように思う。
再読したくなる小説
人によって解釈が違うだろう作品。また時をおいて、じっくり読み直してみたい。
すっきりとした答えは出ない。ラストの一行を読んでもなお、「これはどういうことか」という問いが頭の中を巡り続ける。
ただ、それは不快なものではなく、むしろ読み終えてしばらく経ってから、ふとした瞬間に「こういうことだったのかもしれない」という新しい解釈が浮かんでくる種類のモヤモヤだった。
分かっていたはずの虚構と現実が、最終章でぐちゃぐちゃになる。 何度も読み直して、時々思い返して悩む。何日も考えて、ようやく「なぜ娘の明日美がほとんど描かれてこなかったのか」に思い至った。 その瞬間、しばらく放心した。



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