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⚠️ ネタバレに関するご注意
この記事には小説『十三番目の人格ISOLA』の核心に触れるネタバレが含まれています。
未読の方はご注意ください。
貴志祐介さんという作家を、『黒い家』や『悪の教典』から知った人は多いと思う。だが、その手前にもう一冊ある。デビュー作『十三番目の人格 ISOLA』だ。
13番目の人格「ISOLA」の正体は何だったのか、そこに阪神・淡路大震災という背景がどう関わっているのかを、感想を交えて書いていきたい。映画版との違いにも最後に触れた。
デビュー作にして、すでに完成していた作家
本作はもともと『ISOLA』というタイトルで、第3回日本ホラー小説大賞の長編部門佳作に選ばれた作品だ。その後『十三番目の人格 ISOLA』と改題され、1996年4月に角川ホラー文庫から刊行された。そして翌年、貴志さんは『黒い家』で第4回の大賞を受賞する。
デビューから一年での大賞受賞、という経歴だけを見ると、急激に伸びた作家さんに見える。だけどデビュー作の本作を読むと、印象はむしろ逆に感じる。恐怖を「構築する」設計思想が、最初の一冊の時点ですでに出来上がっているように思う。これが佳作止まりだったのかと、少し不思議になるくらいに完成度が高い。
作品情報
- じわじわと迫ってくる、心理的な恐怖を味わいたい人
- 多重人格や幽体離脱など、オカルト×心理ミステリが好きな人
- 「怖い」だけでは終わらない、悲しさや喪失感の残るホラーを読みたい人
- 貴志祐介作品の原点ともいえるデビュー作を読んでみたい人
あらすじ
舞台は阪神・淡路大震災直後の神戸。主人公の賀茂由香里は、人の強い感情を読み取ってしまう「エンパス」と呼ばれる能力の持ち主だった。その力を活かし、震災後のボランティアとして被災者の心のケアに関わっている。
そんな彼女が西宮の病院で出会うのが、長期入院中の少女・森谷千尋だ。千尋の中には、すでに12もの人格が同居していた。由香里は臨床心理士とともに人格の統合を目指していくが、震災のあとに現れた13番目の人格である「ISOLA」だけは、それまでの人格とまるで質が違っていた。
この「ISOLA」とは何なのか。物語はそこから崩れていく。
なおタイトルの「ISOLA」は、作中に登場する『雨月物語』「吉備津の釜」の怨霊・磯良と、幽体離脱の実験道具「ISOLATION TANK(アイソレーションタンク)」の二つに由来する。怪異と実験装置。この二重の出自そのものが、本作のテーマである「現実と異界の境界の曖昧さ」を先に言い当てていたように思う。
「エンパス」という視点の、静かな異質さ
読み始めてまず面白いと感じたのが、由香里の持つエンパスという設定だった。他者の感情を、言葉ではなく直接知覚してしまう能力である。
この設定が巧妙なのは、ホラーの主軸を「見る・聞く」から「感じ取る」へとずらしている点にある。多くのホラーは視覚的な恐怖に依存するが、本作の恐怖は感情の流入というかたちで、主人公の身体の内側に入ってくる。読者は、恐ろしいものを外から眺めるのではなく、由香里の感覚を通して内側から感じることになる。恐怖が映像ではなく体験として伝わってくるのは、この構造のおかげだと思う。
同時に、この能力は超常現象と心理現実のあいだに架けられた細い橋としても機能している。橋があるからこそ、そこに「ISOLA」という異物が乗ったときの違和感が、生々しい実感を伴って立ち上がってくる。ホラーでありながらミステリとしても崩れていないのは、この一本の橋が最後まで落ちないからだろう。
13番目の人格をめぐる仕掛け
「ISOLA=磯良=怨霊」という誘導
本作の核心は、読み手の誤読があらかじめ設計されている点にある。
千尋の中の13の人格には、それぞれ名前と役割が与えられている。そして「ISOLA」という響きは、どうしても『雨月物語』の磯良を連想させる。作中でもこの連想は提示され、解釈は自然と「これは怨霊の憑依である」という一方向に固定されていく。私自身、中盤まで完全にその線で読んでいた。
この誘導がどれだけ効いていたか。江戸時代に上田秋成が著した怪異小説集、という程度の知識しかなかった私が、読み終えたその足で『雨月物語』を買って読んでいる。それだけ「磯良とは何者なのか」を確かめたくなっていた。
実際に「吉備津の釜」を読むと、不実な夫に裏切られた妻の強い怨念の話であり、磯良には恨む相手がはっきりしていたとわかる。憎むべき対象があって、ただひたすらそこへ向かっていく怪異だ。
明かされる、悪意ではないもの
だが、その前提は終盤で静かに、しかし鮮やかに裏切られる。
13番目の人格の正体は、幽体離脱の最中に震災に巻き込まれ、帰るべき肉体を失ってしまった存在だった。怨霊でも悪魔でもない。ただ、戻る場所をなくした誰かだった。
この事実が明かされた瞬間、恐怖の性質そのものが変わる。「悪意ある存在への恐怖」から、「帰る場所を失った存在への認識」へ。倒すべき敵が、行き場のない他者に変わってしまう。この転換こそが本作最大の仕掛けだと感じた。怖いはずの場面が、読み返すと途端に痛ましく見えてくる。
磯良には向かうべき相手がいた。ISOLAには、それがない。ただ帰りたいだけの存在が、帰れないまま漂っている。原典を読んでから振り返ったとき、この差がいちばん重く感じられた。
阪神・淡路大震災という「背景」の重さ
本作において、震災は単なる舞台設定ではない。物語の外側にある出来事ではなく、むしろ物語を内側から規定している装置として働いている。
1995年の震災は、1996年の刊行時点ではまだ「過去」ではなかった。社会の記憶として、生々しく残っていた。だから本作に描かれる「震災後の神戸」は、歴史の再現ではなく、まだ終わっていない現実の延長として書かれている。
そう考えると、ISOLAの設定。幽体離脱の最中に震災に遭い、帰る身体を失うという構造は、地震によって家を、街を、日常を失った人々の感覚と静かに重なる。この重なりがあることで、ISOLAは怪異であるだけでなく、喪失そのもののかたちを帯びはじめる。
実在の災害を題材にした作品である以上、読む側にもある種の姿勢は求められると思う。ここで書いているのはあくまで一冊の小説についての感想であり、現実の犠牲者や被災された方々の経験を、物語の面白さに回収するつもりはない。
貴志祐介ホラーの「科学的アプローチ」
貴志作品に一貫しているのは、超常現象を心理学や生理学、実験装置へと接続しようとする姿勢だと思う。
多重人格、幽体離脱、エンパス。どれも「ありえない」と切り捨てられやすい題材だ。だが作者は、それらが完全なフィクションとして宙に浮かないよう、慎重に足場を組んでいる。たとえば幽体離脱は、感覚遮断装置であるISOLATION TANKと結びつけられることで、「現象として成立しうる余地」を与えられている。
この「説明可能性の演出」が、本作の恐怖を支えていると感じた。完全な怪異なら、安心して物語の外側に立てる。だが説明できそうで、あと一歩のところで説明しきれないものを見てしまうと、逃げ場がなくなる。
なお、作中で描かれる多重人格は、現在は解離性同一性障害と呼ばれる実在の疾患である。本作の描写は1996年当時の理解を踏まえたフィクションであり、医学的に正確な記述として読むものではない点は、念のため添えておきたい。
恐怖は二段構えで設計されている
本作の怖さは、驚かせる方向には向かっていない。読んでいるあいだは緊張を強いられ、読み終えたあとは遅れて効いてくる。この二段構えが、かなり意図的に組まれていると感じた。
読んでいる最中|物音を立てられなくなる
もっとも張り詰めたのは、ISOLAが由香里を探しにくる場面だ。
ここは、読んでいる私も動けなくなった。ページをめくる紙の音さえ大きすぎる気がして、息を吸うのもためらわれる。自分は安全な部屋にいて、これは紙に印刷された文字にすぎないとわかっているのに、身をひそめる姿勢になっている。
驚かされたのではない。見つかってはいけないという緊張が、こちらの身体に移ってきたのだと思う。エンパスという設定が、ここで最大の効果を発揮している。由香里の感覚をなぞって読んでいるから、彼女が息を殺せば私も息を殺すことになる。
読み終えたあと|遅れて効いてくる不安
そして読了後、こんな感覚に襲われた。
日常の隙間が、全部怖くなる。カーテンの向こう、クローゼットの中、部屋の四隅。何もないとわかっている場所が、急に「確かめていない場所」に変わってしまう。
これは単なる恐怖演出の余韻というより、日常認識そのものの組み替えに近い気がする。この物語が扱っているのは「見えない場所にいる何か」ではなく、「帰れなくなった誰かが、まだそのへんにいるかもしれない」という可能性だからだろう。前者は退治できるが、後者はどうしようもない。
つまりこの恐怖は、怖い話として消費されて終わるのではなく、世界の見え方をほんの少し歪ませたまま残るタイプのものだと思う。
映画版『ISOLA 多重人格少女』との違い
本作は2000年1月22日に『ISOLA 多重人格少女』として映画化されている。監督は水谷俊之さん、上映時間94分、配給は東宝。原作者の貴志さん本人もカメオ出演している。
興味深いのは、この映画が日本の映画作品として初めて阪神・淡路大震災を題材にした作品だという点だ。被災者への追悼も込められており、エンディングには神戸ルミナリエの映像が使われている。
一方で、原作との差もはっきりしている。映画版は精神医学的な側面よりもオカルト要素が強調され、13の人格それぞれの葛藤は大幅にカットされた。
この改変は、原作の「科学的アプローチ」を考えるうえで、かえって良い補助線になると思う。人格同士のせめぎ合いという地味で内向的な部分こそが、本作を単なる憑依ホラーから遠ざけていた要素だった。それが削られると何が残るのかを見るために、原作を読んだあとに映画を観るのも良い体験になると思う。
ちなみに『黒い家』も映画化されている。あちらの改変の方向性と比べてみるのも面白いかもしれない。
なお漫画版も『ISOLA〜多重人格少女〜』のタイトルで刊行されている(作画・凜野ミキさん)。こちらは私は未読なので、いずれ読んでみたい。
この小説をどう読むか
デビュー作の時点で、貴志さんの設計思想はほぼ完成していたのかもしれない。ここにはすでに、以下の要素が揃っている。
- 科学と怪異の接続
- 心理と超常の融合
- 救済の不在を前提とした構造
とくに三つ目は重要だと思う。誰も完全には救われないという前提が最初からあるからこそ、恐怖に安易な着地点が用意されない。これは『黒い家』にも『悪の教典』にも共通する感触だ。本作は、その原型として読むことができる。
1996年の作品でありながら今も古びていないのは、「多重人格」「喪失」「帰還不能」というテーマが、時代に依存しない普遍性を持っているからだろう。
まとめ
本作の本質は、「怖さ」と「痛み」が最後まで分離されないところにあると思う。恐ろしいものの正体がわかっても、安心にはたどり着かない。むしろ、わかってしまった後のほうがつらい。
単なるホラーというより、存在の行き場のなさそのものを描いた物語として読める一冊だった。
ただ、読後しばらくは、日常の静けさが少し違って見えるかもしれない。夜ふけに読み終えるのは、あまりおすすめしないでおく。



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