この記事では、映画『殺人の追憶』のラストシーンの意味や、実話との関係、そして「普通」という言葉が持つ恐怖について考察します。
こんな人におすすめ
- ラストシーンの意味をしっかり理解したい人
- 考察系の映画が好きな人(余韻が残るタイプ)
- 実話ベースの重い作品に惹かれる人
⚠️ ネタバレに関するご注意
この記事には映画『殺人の追憶』のネタバレが含まれています。
未視聴の方はご注意ください。
犯人は最後までわからない。それでも、この映画は終わらない。
この映画を初めて観終わった後、しばらく何もできなかった。
こちら側を静かに見据えるあの目が、まだそこにあるような気がしていた。消化できない感情を抱えたまま、ただぼんやりと時間が過ぎていった。
韓国映画『殺人の追憶』。初めて観た人も、繰り返し観た人も、おそらく似た感覚を味わうのではないだろうか。
この映画は、「面白かった」とも「怖かった」ともひと言では言い表せない何かを、観た人の胸の奥に静かに残していく。
この田園風景が、やがて地獄に……ポン・ジュノ監督が描く静かな恐怖まずはトレイラーで
実話が持つ重力
まず触れておかなければならないのは、この映画が実際に起きた事件をもとにしているということだ。
1986年から1991年にかけて、韓国・京畿道華城市近郊で発生した「華城連続殺人事件」。
韓国で初めて認識されたシリアルキラー事件として社会に衝撃を与え、延べ167万人が動員されたにもかかわらず、長らく犯人の特定には至らなかった。
この事件はその後、イ・チュンジェによる犯行と特定されている。
ポン・ジュノ監督が本作を製作した2003年の時点では、この事件はまだ未解決だった。
犯人がわからないまま映画は作られ、犯人がわからないまま物語は終わる。
その「解決しない」という構造こそが、この映画のすべてを決定づけている。
フィクションの映画を観るとき、私たちはどこかで「最後には解決する」と信じている。
この映画は、その前提を静かに、しかし確実に裏切る。
二人の刑事が体現するもの
物語の主軸となるのは、対照的な二人の刑事だ。
- パク・トゥマン:勘と経験、そして暴力に頼る地元刑事
- ソ・テユン:証拠を重視するソウル市警の刑事
当初、この対比はどこかコミカルに描かれる。
だが物語が進むにつれて、その笑いは徐々に苦みを帯びていく。
捜査が行き詰まるたびに、パクは暴力へ、ソは証拠への執着へと傾いていく。
しかしどちらの方法も、真実には届かない。
理性も直感も、何ひとつ犯人には届かない。
やがて二人の立場は逆転する。
論理を信じていたソが一線を越えそうになり、直感で動いていたパクが「何もわからない」と崩れていく。
この反転が、映画の中盤以降に深い余韻を残す。
時代という「共犯者」
この映画が特異なのは、時代背景を単なる舞台として扱っていない点にある。
1980年代の韓国は軍事政権下にあり、社会は統制されていた。
デモ鎮圧、灯火管制、国家優先の空気。
事件が起きる夜そのものが、すでに歪んでいる。
捜査の混乱は、刑事たち個人の問題だけではない。
システムそのものが、別の方向を向いていた。
さらに、冤罪で長期間投獄された人物の存在も、この物語に影を落とす。
間違った捜査は、犯人を逃しただけでなく、無実の人生を奪った。
その怒りと絶望は、行き場を失ったまま観る側にも残る。
あのラストシーンの「普通」が意味するもの
刑事を辞めたパクは、偶然かつての事件現場を訪れる。
そこで少女から、かつて同じ場所を覗いていた男の話を聞く。
「どんな顔だった?」
「……普通の顔」
この一言が、あまりにも重い。
「普通」とは、安心の言葉のはずだった。だがこの映画では、それが最も不気味な言葉に変わる。
かつて「目を見ればわかる」と言っていたパク。
その信念は崩れ去り、彼はカメラ――つまり観客を見つめる。
この視線は問いかけてくる。
- 犯人は今もどこかで生きているのではないか
- 誰の中にも同じものがあるのではないか
- この怒りはどこへ向ければいいのか
答えは提示されない。
ただ、「普通」という言葉の不気味さだけが残る。
2019年――現実が映画に追いついた瞬間
2019年、華城連続殺人事件の犯人がDNA鑑定によって特定された。
しかし時効により、この事件で裁かれることはなかった。
そして、その犯人は服役中にこの映画を観ていたとされている。
フィクションが現実に追いついたのではない。
現実が、フィクションの中に入り込んできた。
この事実は、映画のラストに新たな意味を与えた。
ポン・ジュノという監督のまなざし
この作品を通して見えてくるのは、ポン・ジュノという監督の一貫した視点だ。
『パラサイト』が「格差社会の構造」を、『殺人の追憶』は「事件を解決できなかった捜査システム」と「それを取り巻く時代の空気」を描いている。
主人公たちが善人か悪人かという問題ではなく、個人がどれほど誠実であっても、どれほど努力しても、
システムが歪んでいれば、真実には届かない。彼は常に、「個人では抗えない構造」「機能しないシステム」を描く。
それは特定の時代や国に限らない。社会への不信、声をあげても届かない絶望、加害者の「普通さ」
それらが観る者それぞれの現実に、静かに重なってくる。
『殺人の追憶』というタイトルが残すもの
このタイトルは、誰の記憶なのか。
- 刑事たちの記憶
- 被害者の記憶
- 犯人の記憶
- そして、この映画を観た私の記憶
おそらく、そのすべてだと思う。
この映画は、観た人全員の中に残り続ける。
それは解決しない事件の理不尽さ、無力感、それでも追い続けた人間の哀しみ。
そして「普通の顔」という言葉も、静かに沈んでいく。
「普通」とは、どんな顔なんだろう。
関連記事:
・「追い続けた犯人の顔が、最後まで見えなかったとき」→ 映画『チェイサー』感想|犯人は分かっていたのに、救えなかった命
・「犯人の”普通の顔”が、すべてを狂わせた」→ 犯人は最初から「勝って」いた——『セブン』が30年後も古びない本当の理由



コメント