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- 「幽霊より人間が怖いホラーを探している人へ」
- 「SNSで話題の『自称イクメン』にモヤモヤしたことがある人へ」
- 純粋な心霊ホラーだけを求めている人
- 後味の悪い家族ドラマが苦手な人
- 「人間のリアルな嫌さ」を読みたくない人
ぼぎわんとは?
「ぼぎわん」という名前は、読む前から不気味だ。
意味はわからない。どんな姿かも想像できない。しかしこの四文字が、なぜか不快な引力を持っている。読む前から「何か怖いものが近づいてくる」という感覚が、このタイトルの音の響きから漂っている気がした。
澤村伊智さんのデビュー長編『ぼぎわんが、来る』(角川ホラー文庫)は、第22回日本ホラー小説大賞を、同賞史上初めて審査員全員の最高評価で予備選考を通過し、最終選考でも全会一致で受賞した作品だ。映画化(タイトル『来る』)も話題になった。
読み終えた後に振り返ると、この小説が描いた「怖さ」は、最初に想像していたものとはかなり異なる方向にあった。
作品概要
著者は澤村伊智(さわむら・いち)、1979年大阪府生まれ。フリーライターとして働きながら趣味として小説を書き始め、34歳の節目に初めての長編に挑戦した。本作は「比嘉姉妹シリーズ」の第1作目でもある。
あらすじ
第1章「訪問者」
田原秀樹は幸せな新婚生活を送るサラリーマンだ。妻・香奈との間に娘・知紗が生まれ、「イクメン」としての生活を謳歌している。しかしある日、会社に謎の来訪者が現れる。やがて一連の怪異が始まり、「ぼぎわん」という存在の影がちらつき始める。
第2章「所有者」
視点は妻・香奈へ移る。夫の見えていなかった現実と、育児の孤独が浮かび上がる。
第3章「部外者」
オカルトライター・野崎昆の視点で、怪異の正体に迫っていく。
視点が変わるたびに世界が反転する構造
本作最大の仕掛けは、章ごとの視点転換による「認知の反転」だ。
第1章では主人公・秀樹は“良き父親”として描かれる。しかし第2章で視点が妻へ移ると、その像は崩れる。育児は妻任せで、自己評価だけが肥大化した人物像が浮かび上がる。
同じ出来事が、視点ひとつでまったく別の意味を持つ。この構造そのものが、本作のホラー性を支えている。
おばけよりも人間が怖い
本作の恐怖の中心にいるのは「ぼぎわん」ではなく人間だ。
秀樹は悪人ではない。しかし、自分の理想像と現実のズレに気づかないまま家庭を消費していく。その無自覚さが、静かに周囲を追い詰めていく。
この「悪意のない加害性」こそが、最も現実的な恐怖として描かれている。
「ぼぎわん」という名前の恐怖
本作では怪異の正体は明確には描かれない。
重要なのは“何が起きたか”ではなく、“人々がどう恐れたか”だ。恐怖は実体ではなく、語られ方によって増幅していく。
この構造により、「ぼぎわん」は姿を持たないまま読者の中に定着していく。
ブギーマンという起源
「ぼぎわん」は西洋のブギーマンが変化した存在として語られる。
これは“名前だけが先に恐怖を持つ存在”であり、実体の曖昧さこそが本質だ。
第2章が突きつける「家族のすれ違い」
本作が単なる怪談で終わらない理由は、「ぼぎわん」が現れる前から、すでに家族が壊れ始めていることだ。
特に第2章で香奈の視点に切り替わった瞬間、それまで“幸せな家庭”に見えていたものの輪郭が崩れていく。
第1章の秀樹は、自分を「家族思いの夫・父親」だと信じている。育児にも参加しているつもりで、周囲には“イクメン”として振る舞う。しかし香奈の視点から見る秀樹はまるで違う。
香奈が求めていたのは、「キラキラした育児日記を綴り、“イクメン”として振る舞う夫」ではなく、「同じ温度で家庭を背負ってくれるパートナー」だった。
しかし秀樹は、“自分は頑張っている”という自己評価に強く支えられているため、香奈の疲弊や孤独に気づけない。むしろ「これだけやっているのに」という感覚すら持っている。
このズレが苦しいのは、秀樹に明確な悪意がないことだ。
暴力を振るうわけでもない。露骨に妻を支配するわけでもない。だが、“自分が正しい”と思い込んでいる人間は、時に悪人よりも厄介だ。
香奈は「助けて」と言えないまま疲弊し、秀樹は「家庭はうまくいっている」と思い込んだまま、夫婦の距離だけが静かに確実に広がっていく。
そして、この“会話が成立していない家族”という構図は、秀樹の育った家庭にも繋がっているように見える。
作中で描かれる秀樹の母親は、息子に強く執着し、香奈との距離感にも無遠慮に踏み込んでくる。一方で父親は、家庭内の問題に深く関わろうとしない。
さらに祖父母の世代にも、どこか「長年触れてはいけないものを抱えてきた家」の気配が漂っている。
祖母は「ぼぎわん」を単なる昔話としてではなく、現実の恐怖のように語る。そして祖父もまた、祖母が抱えている何かに気づいていたように見える。しかし、それ以上は踏み込まない。
この「わかっていても触れない」という沈黙は、秀樹たち夫婦にも受け継がれている。
香奈は苦しみを抱え込んだまま言葉にできず、秀樹は家庭の異変に気づかない。互いに会話しているようで、本当の意味では噛み合っていない。
本作における恐怖は、怪異そのものよりも、こうした家族の中に蓄積していく沈黙や歪みにあるのかもしれない。
ぼぎわんは突然現れた侵略者ではなく、そうした綻びに入り込むようにして「来る」。あるいは、家族の中で長年受け継がれてきたものが、怪異という形を取って表面化した存在なのかもしれない。
評価が分かれる第3章
終盤では除霊師・比嘉琴子が登場し、物語はバトル的展開へと移行する。
この変化を「盛り上がり」と見るか「ジャンルのズレ」と見るかで評価は分かれる。
ラストの余韻
物語の終盤、母娘で幸せにやり直せると思い読み進めていると、娘の口から意味不明な言葉がこぼれる。
それは単なる“ホラー的な後味”というより、家族の中にあった何かが、まだ終わっていないことを示しているようにも見えた。
ぼぎわんが消えていないのか。それとも、家族の中に積み重なってきた歪みや沈黙が、次の世代へ静かに受け継がれてしまったのか。
はっきり説明されないからこそ、このラストは読後に不穏な余韻を残し続ける。
「来る」という言葉の正体
タイトルの「来る」という言葉には主語がない。
怪異かもしれないし、無自覚な加害性かもしれないし、家庭の歪みかもしれない。
何が“来る”のかは、読み手に委ねられている。



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