『ぼくのメジャースプーン』感想|罰を決める責任

読書感想

罰を決める責任 〜小学四年生に問われた、大人の私〜

「誰かを許せない」という激しい怒りに、
飲み込まれそうになったことはありませんか?

辻村深月さんの名作『ぼくのメジャースプーン』を読み、
大人の私が忘れかけていた「責任」について、深く考えさせられました。

もし私に、誰かを罰する特殊な力があったら――
本当に正しい罰を与えられるのか。

「目には目を」
大切な人が理不尽に傷つけられたら、犯人の更生なんてどうでもいい。
私は等価交換を求めてしまう。
人を傷つけたら、自分が傷つけられても文句を言う権利はない。
犯人がぬくぬくと生きている世界なんて、受け入れられない。
他人の痛みを娯楽にした人間は、絶対に許せない。

けれど、小学四年生の「ぼく」は、その単純な正義に飛びつかなかった。
「ぼく」は怒りを抱えながらも、誰かを壊すことを選ばなかった。


作品紹介

学校で飼われていたウサギたちが、何者かに惨殺される。
その現場を目撃した幼なじみの「ふみちゃん」は、心を閉ざし、言葉を失う。

主人公は、言葉に特別な力を持つ小学四年生の「ぼく」。
同じ力を持つ「秋山先生」の助言を受けながら、
犯人にどんな言葉の罰を与えるべきか、苦悩しながら復讐を決意する。

「『自分のため』の気持ちで結びつき、相手に執着する。
その気持ちを、人はそれでも愛と呼ぶんです」

大切な人が理不尽な悪意で傷つけられたとき、
自分ならどうするのか。

命の重さ。
罪と罰。
反省と償い。
そして、復讐は誰のためのものなのか。

復讐の是非を単純な正義に回収せず、
子どもたちの心に残る傷を、容赦なく掘り下げていく。

読み進めるほどに、
「自分ならどうするか」という問いが、
突きつけられる物語。

——あなたは、どんな罰を選びますか。

被害者の痛みと等価交換の葛藤

「目には目を」
たとえ罰を与えても、被害が消えるわけではない。
痛みも恨みも消えない。
結局は許せずに恨み続けるしかない。

でも、自分に置き換えて考えた時、
大切な人が自分のために思い煩い、苦しむことは望まない。
心穏やかに幸せに過ごしてほしいと思う。

被害者がかわいそうだから、加害者にはそれ相応の罰を。と思っていました。
でも、自分が被害者の場合と、大切な人が被害者の場合で、
私が加害者へ与えたい罰は変わる。

罰は、誰のためのものなのか?
私自身が失ったことに対する復讐。
私が納得するための等価交換。
私のための罰なのか?

人の痛みは数値化できるものではないのに、
どうやって「目には目を」と償わせることができるのか。
加害者が心から反省しない限り、
罰は痛みや苦しみを加えることでしかない。
結局、反省は演じられても、更生が信じられるとは限らない。

そもそも愉快犯のように、理解した上で悪意を選ぶ人間は、
反省や改心したとしても信じられない。
でも、不可抗力や過失からの過ちならば、
不完全でも償いを受け入れられる世の中であってほしい。
誰でも(私も大切な人も)、知らずに誰かを傷つける可能性があるから。


信じたい世界のために

結局、他人の痛みは測れない。
だから償いも、完全には成立しない。

悪意を持った人に加害されないように、裏切られないように、
身近な人以外は信じず、近付かずに自衛するしかないのでしょうか。

それでも私は、人を信じたい。
信じ合える人と過ごしたいし、これから出会う人とも信じ合いたい。
そういう世界で生きていきたいです。

怒りや不満を抱え、葛藤しながらでも、
投げ出さずに考え続けること。
大人として、より良い世界のために。


責任と覚悟

読みながら、涙が止まりませんでした。
小学四年生の「ぼく」が背負った重さ――
怒りも痛みも、悩みも――を思うと、胸が締め付けられました。

大人の私は、「ぼく」ほどの責任や覚悟が持てるのか。
諦めて逃げずに向き合いたいと思いました。
怒りや、痛み、悩みも抱えたまま。
責任と覚悟を持って、
人に対して、社会に対して諦めたくないです。



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