染井為人『悪い夏』感想&考察|「転落」は特別な人間だけの話ではない

読書感想

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⚠️ ネタバレに関するご注意

この記事には小説『悪い夏』の核心に触れるネタバレが含まれています。
未読の方はご注意ください。

この小説を読む前に知っておいてほしいこと

この小説は読後感がいい本ではない。

「面白い」と「胸糞悪い」が同時に存在しているような、不思議な読書体験だった。どんでん返しを期待して読めばその期待は別の形で裏切られるし、「最後はきっと報われる」と思いながら読めばその希望も打ち砕かれる。

それでもページをめくる手が止まらない。なぜなのかを考えながら読んでいた。

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『悪い夏』
著者
染井為人
出版
KADOKAWA・2020年
頁数
384ページ
ジャンル
サスペンス / ドラマ
読後感
報われない / 胸糞
キーワード
生活保護 / 転落 / 不正受給
こんな人におすすめ!
  • 「自分は大丈夫」と思っている人
  • 胸糞耐性のある人
  • セーフティネットの限界を危惧する人

あらすじ

26歳の守は、生活保護受給者のもとを回るケースワーカー。同僚が生活保護の打ち切りをちらつかせ、担当ケースの女性に肉体関係を迫っていると知った守は、真相を確かめようと女性の家を訪ねる。しかし、その出会いをきっかけに、普通の世界から少しずつ足を踏み外していく。

生活保護を不正受給する小悪党、貧困にあえぐシングルマザー、東京進出を目論む地方ヤクザ。加速する負の連鎖が、守を凄絶な悲劇へ叩き堕とす。

第37回横溝正史ミステリ大賞優秀賞受賞作として登場した、染井為人さんのデビュー作。舞台は地方都市の社会福祉事務所。ここから始まる話は、生活保護行政のリアルな現場を描きながら、やがてヤクザや貧困ビジネスまで絡んだノワールサスペンスへと変貌していく。

「群像劇」という構造の巧みさ

この小説の面白さのひとつは、複数の視点で物語が進行する群像劇という構成だ。章ごとに視点人物が変わる。ケースワーカーの守、シングルマザーの愛美、不正受給に絡む人物たち、ヤクザ。それぞれの視点から同じ「夏」が描かれる。

これが読み手に何をもたらすかというと、「誰かが悪者」とは単純に言えない状況を作り出す効果がある。ある視点では「こいつが悪い!」と思えても、別の視点から見ると「この人もそうせざるを得なかったのかも」という事情が見えてくる。

明確に「これが悪だ」と言い切れるものがないのも面白い。法律的に、倫理的に問題のある行動は確かに存在する。それでも、行動しないこと、考えないこともまた、別の形の「悪」になり得るのだろう。

この「明確な悪がない」という点が、この小説を単純なサスペンスに留めない要因だと思う。読後に「誰が悪かったのか」を考えると、答えが一つに定まらない。それぞれが「そうせざるを得なかった」理由を持ちながら、少しずつ「悪い夏」を作り上げていく。

転落の速度について

読んでいて最も怖かったのは、主人公・守が転落する速度だ。

守はどう見ても「真面目な人間」として登場する。同僚の不正を見過ごせず、弱者を見捨てられない。その善良さが、最初の一歩を踏み出させる。

「全員がクズとワル」という前評判を先に目にしていたが、読み始めた時に「善人も真面目な人もいるのに」と思っていた。けれど後半に進むにつれて、少しずつ皆が壊れていき、気づけば誰もがどこかしら“クズ”になっている。

守の転落は突然ではなく、少しずつ、少しずつ進んでいく。気づいた時にはもう相当深いところまで来ていて、戻り方がわからなくなっている。

たった一歩、選択を間違えるだけで、人生はここまで狂ってしまうのかと思わされる。

これは守だけの話だろうか、と考えてしまった。

最初の一歩は「正しいことをしよう」という動機から始まる。だけど、その一歩が予期しない方向へと引っ張られていく。そういう体験は、程度の差こそあれ、誰にも心当たりがあるのではないか。

生活保護という舞台が語るもの

この小説が生活保護の現場を舞台に選んだことには、大きな意味があると思う。

「『生活保護を貰ってる奴らは、楽して金を得てずるい』ではなく、『一生懸命働いているのに、 生活保護世帯より低い賃金しか貰えない社会の方がおかしい 』と考えるべきなんだ」というセリフが刺さる。

この言葉は、この小説全体のテーマを凝縮しているように感じた。「なぜ不正受給する悪い人間がいるのか」ではなく、「なぜ不正受給しなければ生きていけない人が生まれるのか」という問いへ視線を向けているからだ。

この作品は個人のモラルだけを裁くのではなく、そうした状況を生み出してしまう社会の歪みにも目を向けているように思えた。

声の大きな者だけが得をするという、日本社会の闇も描かれている。

黙っている人はスルーされる。その言葉に正義がなくても、大声を張り上げたり、徒党を組んだりすると、いつの間にかそれが正当化されてしまう。

生活保護は他人事に見えるかもしれない。でも、どんな人でも一歩間違えば、どん底の生活に引きずり込まれる恐怖がある。むしろ、間違っていなかったのに、いつの間にか転がり落ちていることもある。守の転落は、その象徴として機能していると思う。

「夏」という舞台設定の意味

タイトルに「夏」が入っているのは、単なる季節の話ではない。

作中は夏真っ盛り。楽しく爽やかな夏のイメージを抱かせることはなく、夏のいい思い出も描かれない。蒸し蒸しとして、じっとりと汗ばむ不快感がまとわりつく日中の暑さの中、行きたくもない仕事に行ったり、土砂降りの中でも仕事をしなければならなかったりする。

そういう「夏の悪いところ」が凝縮された作品なのだろう。

夏という、普通は「解放感」や「青春」と結びつく季節。この小説はその対極を描くことで、閉塞感と息苦しさをより際立たせている。どこまで行っても涼しくならない、じっとりまとわりつく不快感と、どこまで読んでも事態が好転しない物語——「悪い夏」というタイトルは、そういう意味でピッタリだと思う。

読後に残るもの

読み終わった時に深いため息が出て、体力が削られてぐったりする。

読後、しばらく頭に残るのは守の転落そのものよりも、「自分が守の立場だったらどうしていたか」という問いだった。

最初の一歩は善意だった。でも、その善意が連鎖を生み、連鎖が転落を生む。「正しいことをしようとした人間がここまで堕ちる」という物語は、読者自身の選択を静かに問いかけてくる。

この小説は後味が悪い。でも、後味が悪い分だけ、何かが長く残る作品だと思う。

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