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⚠️ ネタバレに関するご注意
この記事には小説『ダクダデイラ』の一部ネタバレが含まれています。
未読の方はご注意ください。
SNSや掲示板の片隅で、ふと出所のわからない不気味な文章に出くわすことがある。
読むつもりもなかったのに、気づけば最後まで目で追ってしまっていた。そんな経験がある方は、少なくないのではないだろうか。
餅屋 䖸(もちや あり)さんの『ダクダデイラ』(KADOKAWA/2026年4月30日刊)は、そうした「怪文書」を集めて束ねた一冊だ。
小説投稿サイト「カクヨム」で連載されていた作品が書籍化されたもので、発売前から重版がかかり、SNSでも大きな話題を呼んだ。
背筋さんの『近畿地方のある場所について』などと並べて語られることも多い、モキュメンタリー(フェイクドキュメンタリー)・ホラーというジャンルの作品である。
今回は読んで感じたことに加え、「なぜこの形式がこれほど不穏に響くのか」という点も考えてみたい。
「物語」ではなく「記録」を読む感覚
本書の体裁は、いわゆる長編小説とは少し違う。
著者が十数年にわたってネット上で収集してきたという「怪文書」を、オムニバスのように並べていく構成になっている。
掲示板の書き込み、削除されかけた投稿、文脈の抜け落ちた断片など。
そうした「記録」が次々と掲載され、読者はそれを誰かの肩越しに覗き込むような感覚で読み進めることになる。
通常の小説であれば、語り手が状況を整理し、人物の心情を説明し、物語を着地点まで導いてくれる。
しかし本書には、その「案内役」がほとんど存在しない。
書籍版ではネット上で削除された文書も含めて約3分の1ほど増量されたとのことだが、増えたのはあくまで「記録」であり、「解説」ではない。
この絶妙な距離感こそが、本作の特徴のように感じた。
本書には残酷描写・暴力描写が、かなり含まれている。
出版社の商品ページにも「心臓の悪い方は十分ご注意のうえ、お読みください。」という趣旨の注意書きが掲載されているほどなので、苦手な方は無理をしないほうがよいだろう。
怖いだけでは終わらない。だからこそ怖い
本書を読んでいて意外だったのは、怖い話ばかりが続くわけではないということだった。
亡き愛犬が交差点で飼い主を守ってくれたようにも思える話では、思わず胸が熱くなった。
また、ひなた君という少年の幽霊と暮らしていた人物の回顧には、不思議な優しさや切なさが漂っていて、「怪文書なのに、こんな読後感もあるのか」と少し肩の力が抜けた。
だからこそ、そのあとに現れるガクヅキの不吉な書き込みには、本気でぞっとした。
正直、ガクヅキは怖くて漢字で書きたくない。
「死因を知ってしまう」というだけでも十分に怖いのに、そこから逃れるために提示される蛾の儀式は、救済どころか別の悪夢の入り口のようだった。
成功例だけではなく、失敗した人たちの記録まで読まされることで、生理的な嫌悪感と恐怖はさらに膨らんでいく。
途中では思わず、
「田丸さん、逃げてー!!」
と、本に向かって声をかけてしまった場面まであった。
本作は、ただ恐怖を積み重ねる作品ではない。
一度読者の心を緩め、切なくさせ、ときには温かい気持ちにさせたあとで、一気に足元を崩してくる。
この恐怖と安堵の緩急こそが、『ダクダデイラ』という作品の最大の魅力だと感じた。
「わかってしまう」よりも「わからないまま残る」怖さ
読み終えて強く残ったのは、はっきりした結末が与えられない居心地の悪さだった。
普通であれば物足りなさにつながりそうだけど、本作に限っては、その「わからなさ」こそが恐怖の中心にあるように感じた。
一つひとつの断片は、それだけでは意味をなさない。
けれど読み進めるうちに、ばらばらだったはずの記録のあいだに、薄い糸のようなつながりが見え隠れし始める。
それでも、すべてが明かされるわけではない。
だからこそ読者は、自分の頭の中で空白を埋めようとする。
「もしかして、あの話とつながっているのではないか。」
「あの一文には、別の意味があったのではないか。」
そんなふうに考え始めた瞬間、読者自身が物語を組み立てる側になっている。
読み終えたあとも、ふとした瞬間に思い出してしまう。
何気なくページを閉じたはずなのに、頭のどこかではまだ断片同士をつなぎ合わせようとしている。
本作の怖さは、ページを閉じた瞬間に終わるものではなく、読み終えたあとも静かに続いていく種類の恐怖なのだと思う。
何でもかんでもオチをつければいい、というものではない。
「わからないまま残すこと」も、ホラーにおける大きな武器なのだろう。
なぜ「作者の声」が消えると怖くなるのか
怪談やホラーの怖さは、しばしば「語り手をどれだけ信じられるか」という点に左右される。
語り手が安心できる存在であれば、私たちはその案内に身を委ね、安全な場所から恐怖を眺めることができる。
ところが本作では、その語り手の存在が限りなく薄められている。
編集して並べた人物はいるはずなのに、その意図や立ち位置がはっきりしない。
すると読者は、自分の足場をどこに置けばいいのかわからなくなる。
「これは作り話だ」と言い切ってくれる声がないために、フィクションと現実の境界が曖昧なまま不安定な状態にされる。
この宙づりの感覚が、じわじわと恐怖を増幅させていくのだと思う。
インターネットという「新しい民話の場」
もう一つ興味深いのは、物語の舞台が掲示板やSNSであるという点だ。
かつての怪談は、村の言い伝えや学校の七不思議のように、共同体の口承によって受け継がれてきた。
誰かが体験し、それを誰かに語り、その話が少しずつ姿を変えながら広がっていく。怪談は、人から人へと伝わることで生き続けてきた文化でもある。
一方、『ダクダデイラ』が拾い上げているのは、匿名のネット空間に漂う断片だ。
誰が書いたのかわからない。
本当にあった出来事なのかもわからない。
そして、いつ消えてしまうのかもわからない。
それでも「確かに存在していた形跡だけが残っている」という点に、不思議なリアリティがある。
そう考えると、インターネットは現代における「新しい民話の語り場」になっているのかもしれない。
本作で何度も登場する「削除された投稿」という設定も、この感覚をより強くしている。
読者は、それを見た瞬間に自然と考えてしまう。
「なぜ削除されたのだろう。」
「本当に消さなければならない内容だったのではないか。」
もちろん、それは作品の演出に過ぎないのかもしれない。
それでも、ネットという身近な場所を舞台にしているからこそ、「もしかしたら本当にあったことなのではないか」という錯覚が生まれる。
インターネットを日常的に利用している世代ほど、この感覚をよりリアルに感じ取れるのではないだろうか。
「読者が物語を組み立てる」という恐怖
本作では、つながりを見つけ、意味を推測し、空白を埋めていく作業の多くが読者自身に委ねられている。
一つひとつの怪文書は断片的で、それだけを読んでも全体像は見えてこない。
しかし、読み進めるうちに「あの話とこの話はつながっているのではないか」と考え始めた瞬間、読者は自然と物語を組み立てる側へ回っている。
つまり本作は、読者自身が「編集者」になる作品なのかもしれない。
だからこそ、人によって読後の解釈は大きく変わる。
「ここが伏線だった」と感じる人もいれば、「あえて回収しない不気味さこそ魅力だ」と受け取る人もいるだろう。
明確な正解が用意されていないからこそ、読み終えたあとに誰かと考察を語り合いたくなる。
その余白の大きさも、本作が多くの読者を惹きつけている理由の一つではないかと思う。
そして、もしかすると本当の恐怖は怪異そのものではない。
断片だったはずの情報に意味を見つけ、点と点を線で結び始めた瞬間、読者自身が物語の成立の共犯者になってしまう。
『ダクダデイラ』が後を引くのは、その感覚を植え付けてくるからなのかもしれない。
以上は、あくまで私個人の受け取り方である。
もちろん、感じ方や解釈は人それぞれ。
だからこそ、この作品は読み終えたあとに誰かと語り合いたくなるのだと思う。
こんな人におすすめ!
- モキュメンタリー・ホラーや「実話風」の不気味さが好きな人
- ネット掲示板や都市伝説、ネットロアの空気感に惹かれる人
- 読者自身が考察しながら点と点をつないでいく作品が好きな人
- 怖いだけでなく、切なさや温かさも味わえるホラーを読みたい人
- すべてを説明されるより、「わからない」が残る物語を楽しめる人
残酷描写・暴力描写・グロテスクな表現がかなり含まれる。
また、明快な結末やすっきりした読後感を求める方には、人によっては少し合わないかもしれない。
おわりに
『ダクダデイラ』は、「物語を読む」というより、「誰かが残した記録に立ち会う」ような感覚になる一冊だった。
説明されないからこそ想像が止まらない。
解決されないからこそ、読み終えたあとも頭のどこかで断片同士を結び付け続けてしまう。
そして、この作品は怖い話だけでは終わらない。
亡き愛犬の話に胸が熱くなり、ひなた君の話に少し救われたからこそ、そのあとに訪れる不穏さは何倍にも膨らんでいく。
読み進めながら思わず声を上げたことも含めて、読書そのものが一つの体験になっていた。
読み終えた今でも、ガクヅキは、あえてカタカナで書いておきたい。
そんなことに意味はないと頭ではわかっている。
それでも漢字で書くのを、ためらってしまう。
それくらい、本作は理屈ではない種類のおぞましさを、読む者の心に残していく。
すべてを理解しようとするより、わからないまま受け止めてみる。
そんな読み方が、この作品には一番よく似合うのかもしれない。


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