映画『殺人鬼の存在証明』感想・考察|「悪」を追いかけていた男が、「悪」だった

映画感想

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⚠️ ネタバレに関するご注意

この記事には映画『殺人鬼の存在証明』の核心に触れるネタバレが含まれています。
未視聴の方はご注意ください。

前半が難解だけど、最後まで観てよかった

時系列が1991年と1980年代前半を行き来し、登場人物の名前と顔がなかなか一致しない。ロシア語の固有名詞は聞き慣れず、誰が誰の部下で、誰と誰が対立しているのかを掴むのに苦労した。

「連続殺人犯を追うサイコスリラー」と聞いてスクリーンに向かっていても、その「スリラー」らしさがなかなか顔を出さない。

これは「連続殺人犯を追う映画」ではない。
“正義の顔をした人間”が、
どこまで壊れているかを暴く映画だった。

中盤以降、パズルのピースが一気に合わさり始めた瞬間がある。それまでのモヤモヤが逆転して、「あのシーンはそういうことだったのか」という快感に変わる。そして物語の核心が明かされたとき、純粋に「してやられた」と思った。

ロシア映画『殺人鬼の存在証明』(原題/英題:Казнь / The Execution)は、 長編デビュー作となるラド・クヴァタニア監督による作品。

この映画は、「入り口に鍵をかけておいて、後から一気に開ける」タイプの映画だ。前半の苦労は、後半への投資だった。

『殺人鬼の存在証明』
原題
Казнь
監督
ラド・クヴァタニア
制作 / 公開
ロシア・2021年 / 日本・2024年
上映時間
138分
ジャンル
ミステリー / サイコスリラー
鑑賞後トーン
重苦しい / 正義が崩壊する / 後味が悪い
キーワード
冤罪 / 連続殺人鬼 / 体制下

作品情報

2021年製作。監督・脚本はラド・クヴァタニア(共同脚本:オルガ・ゴロジェツカヤ)。主演のイッサ役にニカ・タヴァゼ、容疑者アンドレイ・ワリタ役にダニール・スピヴァコフスキ、元相棒イワン役にエフゲニー・トゥカチュク。

シッチェス・カタロニア映画祭やロッテルダム映画祭などで正式上映され、日本では2024年5月に公開された。

モデルとなったのは、ソ連時代に実在した連続殺人犯アンドレイ・チカチーロ(通称「ソ連の赤い切り裂き魔」)。ただし映画の物語自体はフィクションであり、事件をそのまま再現したものではない。

こんな人におすすめ!
  • 悪を制するために悪を用いるしかない諦観について考えたい人
  • 壊れていく正義を追いたい人
  • 冤罪の怖さを考えたい人

あらすじ

1991年。森の近くで、負傷した女性が保護された。彼女の証言から、10年以上続いていた連続殺人事件との関連が浮上する。

しかしその犯人は、すでに3年前の1988年に逮捕・処刑されていた。つまり、誤認逮捕だったのだ。

捜査責任者のイッサ・ダヴィドフは再捜査を開始し、新たな容疑者として言語学者アンドレイ・ワリタに目をつける。

だが、ワリタの口から語られた“ある真実”が、物語を予想外の方向へと引きずり込んでいく。


誰が本当の主人公なのか

この映画は「捜査官イッサが連続殺人犯を追う話」として進む。
しかし終盤、その前提が完全に覆される。

イッサはかつて、不倫相手の女性ベラを殺していた。そしてその罪を、連続殺人犯の犯行に紛れ込ませていた。

つまり彼は、「正義の捜査官」でありながら、自らの犯罪を隠蔽するために捜査を続けていた人物だった。

さらに、元相棒イワンの存在がこの構造をより複雑にする。「悪」を暴くために、別の「悪」を使う。その歪んだ正義が、物語を一層重くする。


「正義の捜査官」という仮面

この映画の怖さは、殺人犯ワリタではなくイッサだろう。

ワリタは「連続殺人鬼」というわかりやすい怪物だ。しかしイッサは違う。彼はあくまで「有能で情熱的な捜査官」として振る舞い続け、観客の信頼を集める。

その人物が、実はシステムを利用して自分の罪を隠していた事実は、「悪は最初から悪の顔をしている」という思い込みを崩壊させる。


旧ソ連という「時代と体制」

この映画を観ていると、「正義」という言葉そのものが信用できなくなる。

証拠よりも逮捕を優先する組織、強引な尋問、上層部のプレッシャー。これらは単なる演出ではなく、当時の体制そのものだ。

実際の事件でも、誤認逮捕された人物が処刑された事実がある。その歴史を踏まえると、映画の出来事は決してフィクションの中だけの話ではない。

原題「Казнь(処刑)」が示す通り、この作品は「誰が殺人鬼か」だけでなく、「処刑という行為は正しいのか」を問いかけているのではないか。


「複数の悪」が重なる構造

  • 連続殺人犯ワリタの悪
  • 誤認逮捕という制度の悪
  • イッサの個人的な悪
  • イワンの“正義としての暴力”

この映画は、どれか一つを「絶対的な悪」と断定できない構造になっている。

誰もがどこかで歪み、どこかで正しさを持っている。その曖昧さが、この作品の不気味さの正体だろう。


前半の「難解さ」について

正直に言うと、この映画は間口が広くない。時系列の複雑さ、登場人物の多さ、固有名詞の難しさなど前半はかなり体力を使う。

ただ、それを乗り越えたときの回収の快感は大きい。

主要登場人物:

  • イッサ(捜査官)
  • イワン(元相棒)
  • ワリタ(容疑者)
  • ベラ(被害者)
  • キラ(ベラの妹)
  • ミロン(ワリタの双子弟)

これら6人に加え、「チェスプレイヤー」と呼ばれる、イッサが過去に逮捕した連続少年殺人犯(実在のアナトーリイ・スリフコがモデル)が、”司法の闇”とイッサの心理を象徴する脇役として登場する。


「処刑」という結末について

映画は「エトルリア式の処刑」という形で幕を閉じる。

互いの首を鎖で繋ぎ、逃げることも、生き延びることもできない状態で共倒れしていく。そんな古代的な処刑法だ。

連続殺人犯と、殺人を犯した捜査官が、同じ運命を辿るというこの構図は単なる因果応報ではない。

それは、「罪の重さは比較できない」という冷酷な現実でもあり、「正義は、もうこの形でしか成立しなかった」という諦めにも見えた。

だからこそこの結末は、カタルシスではなく“静かな絶望”として残る。


骨のあるロシア映画

前半の難解さは確かにハードルが高い。しかしそれを越えた先には、重厚で後味の悪い、唯一無二の体験がある。

「正義の捜査官が悪を追う話」は、「悪が悪を追っていた話」へと反転する。

その瞬間の鮮やかさこそが、この映画の最大の魅力だ。

ハリウッド的な爽快感とは真逆の、湿度と閉塞感に満ちたサイコスリラーだった。

観終わったあと、冷たい水の中に長く沈められていたような感覚が残る。救いはない。だが、その救いのなさが妙に忘れられない。

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