『クリーピー 偽りの隣人』考察|隣人という名の深淵と“普通”の脆さ

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その不快感が、頭の隅からなかなか離れない。それがこの映画の引力なのか。「気持ち悪い」と「もう一度見たい」が共存する——そんな映画だった。

『クリーピー 偽りの隣人』
監督
黒沢清
公開年
2016年
上映時間
130分
ジャンル
サスペンス/ホラー
鑑賞後感
隣人が怖い/不穏/後味が悪い/じわじわ怖い
キーワード
隣人/ サイコパス/洗脳/普通/支配
原作
前川裕『クリーピー』(光文社文庫刊)
「驚かせる怖さ」の映画ではない。ジャンプスケアもなく、露骨なバイオレンスも少ない。ただ、じわじわと「隣人が怖い」という感覚が膜のように体にまとわりつく。

こんな人におすすめ

  • “じわじわ怖い映画”が好きな人
  • サイコパス映画や不条理サスペンスが好きな人
  • 「隣人」という存在に不気味さを感じる人

二本の糸が絡まるまで

高倉という“普通ではない主人公”

冒頭シーンから、主人公・高倉幸一(西島秀俊)の「普通ではなさ」は滲み出ている。人質事件の現場でサイコパス犯罪者に異様な関心を示し、刺されて職を離れるまでの経緯が描かれる。

刑事を辞めた高倉は、犯罪心理学者として大学の講師となり、妻・康子(竹内結子)とともに郊外の新居に引っ越す。

西野という説明不能な隣人

新居で高倉は、隣人の西野(香川照之)に奇妙な違和感を覚える。無愛想で、言動が噛み合わず、どこかが「ずれている」。そんな折、西野の娘・澪(藤野涼子)が高倉家に駆け込んで告げる。

「あの人、お父さんじゃありません。全然知らない人です」

この台詞の前から、観客はすでに「隣人」という存在そのものに不信感を抱いている。

失踪事件と隣人の接続

並行して、高倉は元同僚の野上(東出昌大)から依頼された6年前の一家失踪事件を調べている。唯一の生き残りである長女・早紀(川口春奈)の記憶の断片が、隣人・西野の正体と徐々に接近していく。

高倉幸一もまた“クリーピー”な人物

高倉はサイコパスを「貴重なサンプル」と呼んで興奮する。妻より事件への好奇心が先立つ冷淡さを持ち、彼自身もある種の「クリーピー」さを帯びていると言える。

犯罪心理学者なのに人の心が読めない。妻の孤立に気づかず、西野への好奇心が、家族を守る判断より先立つ。その皮肉が、この映画の不穏さをさらに深くしている。

西野の怖さは「目的が見えないこと」

西野は隣人を装って家族を乗っ取る、得体の知れない男だ。なぜそれをするのかが一切語られないので、その「目的のなさ」こそがこの映画最大の恐怖かもしれない。

香川照之の演技は圧倒的で、目線や話し方だけで異物感を生み出している。ただ、その存在感が強すぎるからこそ、「こんな人は現実にはいない」と感じる人もいるかもしれない。

あまりにもわかりやすい怪人として描かれていることで、「どこにでもいる人間の闇」という普遍性が薄れてしまっているとも言える。

なぜ人は西野に支配されるのか

この映画で最も多くの議論を生む問いは、「なぜ普通の人たちが西野に取り込まれていくのか」だろう。

西野は最初から怪しい。初対面から言動がおかしく、娘本人が「父ではない」と告白している。それでも康子は彼と交流を深め、最終的に洗脳に近い状態で従う。

支配の仕組みについて

作中では薬物(おそらく向精神薬的なもの)の注射が支配の一手段として描かれる。しかしそれだけではなく、孤独や生活の疲れを抱えた人間の「隙間」に西野がするりと入り込む構造があるのではないか。

康子が引っ越し直後から感じていた「孤立感」——夫は刑事を辞めたのに事件に夢中で自分を見ていない——そこを西野は的確に突いていたとも読める。

黒沢監督はインタビューで、「人が“リアル”と判断するものは、ただの“安心”かもしれない」と語っている。西野が恐ろしいのは、「理解できる悪人」ではないからだ。動機が語られない、目的が見えない——その「理解不能性」こそが、普通の人間の「安心」を根底から揺さぶる。

全員が帯びる歪み

この映画の最も不安に感じる部分は、「西野以外もどこかクリーピー」と思えるところだ。

人物クリーピーな要素
高倉サイコパス犯罪者に「貴重なサンプル」と目を輝かせる。妻の孤立に気づかず、西野への好奇心が家族を守る判断より先立つ。
支配されながら死体処理を淡々とこなし、西野が撃たれると「ザマアミロ」と笑う。被害者でありながら、その表情には観る者を不安にさせる何かがある。
早紀唯一の生き残り。西野はわざと彼女を生き残らせたのかもしれない。彼女の証言の変化もまた一筋縄ではいかない。

この「犯人以外もずれている」構造は、登場人物に「普通の人間」が一人もいない世界で、一見フィクションの誇張に見えるが「普通の人間の内側に眠る歪み」を可視化したものとも解釈できる。

「高倉もサイコパスではないか」という読み

終盤で高倉が西野を打ち倒すシーン。表向きはサイコパスに対する「正義の勝利」のように見える。しかしそこに至るまでの高倉の行動を振り返ると、別の見方もできる。

「人は変わらない」と康子へ語っていた高倉。その言葉は、自分自身への認識でもある可能性がある。事件への好奇心は、刑事を辞めても変わらなかった。

犯罪心理学者として「サイコパスを研究する」行為と、「サイコパスと向き合いたい」という衝動は、紙一重かもしれない。その境界線の曖昧さを高倉という人物が表している気がする。

「高倉が西野に勝てたのは、高倉自身もある種のサイコパスだったからではないか」という考察は、善と悪が鏡像のように向き合う構造を示しているのかもしれない。

「不条理」として受け取るか

海外の批評家評価(ロッテントマトで90%)と一般視聴者評価(57%)の乖離が象徴的だ。この映画は「ミステリーとして楽しむ」層には、「整合性がない」「ご都合主義」に見える。警察の描写はあり得ないし、なぜ普通の人間があそこまで支配されるのかという心理描写も薄いという批判はあると思う。

一方で、「不条理サスペンス」として受け取れば、風景が違って見える。監督自身が「リアルとされるものは、ただの安心だ」と語るように、この映画は最初からリアリズムを志向していない。

むしろ「理解できない恐怖」「説明のつかない支配」こそを描くために、意図的にロジックの穴を空けているとも読める。

どちらの読み方をするかで、評価は大きく変わる。それがこの映画の正直な姿だと思う。

「怖さの種類」を問い直す映画

これは、「外部からやってくる不可解な力」が「普通の人間の生活」を侵食する映画でもある。

「普通の人間の中に眠る邪悪」と「それを目覚めさせる存在」の関係が表され、観る者を不安にさせる。

見終えた後、ふと「自分の隣人は何者なのか」という問いが浮かんだ人は少なくないと思う。現代の住宅地では、隣人の名前も知らないことも珍しくない。その匿名性が、西野のような存在を成立させる土壌になっているとも読めるし、そもそも「普通に見える人間の内側」を私たちが知る術を持っているのか、という問いでもある。

「怖さとは何か」を問い直したい人には、見る価値がある一本だと思う。

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