映画『ゲット・アウト』感想・考察|なぜ怖い?“優しい人たち”の正体

映画感想

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「怖くないのに、ずっと居心地が悪い」という恐怖

Rotten Tomatoesで98%という高評価を見て、レンタルビデオ店で借りてみた。

「怖いシーンはほとんどないのに、ずっと居心地が悪い」。そんな、言葉にしづらい恐怖体験だった。

⚠️ ネタバレに関するご注意

この記事には映画『ゲット・アウト』のネタバレが含まれています。
未視聴の方はご注意ください。

観始めてから10分ほどで、なんとなく不穏な感じがし始めていた。 別に明確な恐怖演出があるわけではない。

ただ、クリスが彼女の家族に迎えられ、笑顔で会話しているだけなのに何かが引っかかる。

笑顔が、セリフが、歓迎の言葉が。どれもどこか少しだけ「ずれている」気がする。

その違和感がやがて確信へと変わり、終盤には「そういうことか」という瞬間が訪れる。

そして振り返ったとき、序盤から散りばめられていたすべての「ずれ」が一本の線でつながる。

ジョーダン・ピール監督の長編デビュー作『ゲット・アウト』は、怖さの質が他のホラーとはまるで違う。

『ゲット・アウト』
原題
Get Out
監督・脚本
ジョーダン・ピール
制作 / 公開
アメリカ・2017年 / 日本・2017年10月27日
上映時間
104分
ジャンル
サプライズスリラー / ホラー
鑑賞後トーン
不穏 / 衝撃の結末
キーワード
差別 / 何かがおかしい / 居心地の悪さ

あらすじ

黒人の写真家クリスは、白人の恋人ローズの実家を訪れる。 「両親に黒人だと伝えていないけど大丈夫か」と不安を口にするが、ローズはまったく気にしていない様子だ。

到着したアーミテージ家は裕福でリベラルな白人一家。脳外科医の父ディーンと精神科医の母ミッシーは、クリスを過剰なほど歓迎する。 しかし家には黒人の使用人ウォルターとジョージナがいて、どこか様子がおかしい。

翌日、亡くなったローズの祖父ローマンを讃える恒例の集まりが開かれる。集まったのは裕福な白人たちで、彼らはクリスを歓迎してくれる。 だけどその言葉もまた、どこかずれている。

こんな人におすすめ

  • 伏線や構造の巧さをじっくり味わいたい人
  • ホラーとしてだけでなく社会的テーマも考えたい人
  • 「怖くないのに怖い映画」が好きな人

善意ある差別

この映画が描く差別は、露骨でわかりやすいものではない。

父ディーンは「オバマに3期目があれば投票していた」と語り、ゲストたちはクリスの身体能力を褒める。 一見すると、彼らは差別主義者とは真逆の「善良で進歩的な人々」に見える。

しかし、その“褒め方”は素直に喜べるものではない。

彼らは黒人を嫌っているのではない。
「好意を持ちながらも、対等には見ていない」のだ。

個人ではなく「属性」として見ているまなざし。それこそが、この映画の恐怖の核心になっているのかもしれない。

象徴的なのが、鹿をめぐるディーンの台詞だ。冒頭、ローズの運転する車は鹿をはねてしまう。その話を聞いたディーンは、鹿は増えすぎている、一頭減るたびに世界は良くなる、という趣旨のことを語る。

生き物を「個体」ではなく「数」として語る口ぶり。あれこそが、この一家の本質を先に見せていたのだと、あとから気づく。 そして終盤、クリスが手にする武器が剥製の鹿の角であることには、はっきりと意味があったのだろう。

沈んだ地(Sunken Place)

ミッシーの催眠によってクリスが落とされる「沈んだ地(Sunken Place)」は、この映画でもっとも象徴的な概念だと思う。

意識はあるのに体を動かせない。声も届かない。自分の体が操作できない、他人に操作されている。

この場面では、私も一緒に沈んで身動きができないような気がして、息苦しくなってしまった。

それはつまり、
「自分の人生を、自分で操作できない」という感覚に近いのか。

ミッシーが精神科医であることも効いている。人の心を治すはずの技術が、人を閉じ込めるために使われている。

この状態は、社会の中に存在していながら、発言権を奪われている感覚のメタファーとして機能しているのだと感じた。

伏線の精巧さが生む“二度目の快感”

本作の完成度を支えているのは、緻密に配置された伏線だ。

例えば、車に同乗していたクリスへ身分証明書の提示を求めた警官への、ローズの態度。 人種差別を糾弾し、毅然とした対応を見せた彼女の姿に、私はクリスに対する強い愛情を感じた。

ところが結末を知ったあとで振り返ると、あの場面はまったく違って見える。

ローズは、クリスが自分と一緒にいた記録をどこにも残したくなかった。正直ゾッとした。

そう考えると、あの「毅然とした態度」の筋が違和感なくきれいに通ってしまう。

映画の中で明言されるわけではない。それでも、そう見えてしまうと、もう元の見え方には戻れない。

散りばめられた伏線が回収されたその瞬間、この映画は単なるホラーから、
「完璧に設計された映画」へと姿を変える。

正直に言うと、一度目では拾いきれていない伏線がある気がして、もう一度見直した。

一度目は衝撃、二度目は構造の美しさ。この二重の体験が、この作品を決定的なものにしている。

カメラとフラッシュが“武器”になる

クリスがカメラマンであることには明確な意味があるのだろう。

フラッシュは、催眠によって抑圧された意識を一瞬だけ呼び戻す。つまり「光」は、隠されていた真実を暴く装置だということではないか。

パーティーで出会った黒人男性ローガン・キングは、クリスの携帯のフラッシュを浴びた瞬間に一瞬だけ自我を取り戻し、「Get out!」と叫ぶ。

彼の本名はアンドレ・ヘイワース。冒頭、夜道で拉致されたあの男性だ。名前を変えられ、別人として振る舞わされていた人物が、光を浴びた一瞬だけ元の自分に戻る。

あの叫びは、自身の身体を乗っ取っている存在に対して「出ていけ!」と言ったのか。 それとも、クリスに向かって「ここから出ていけ(逃げろ)!」と警告したのか。

どちらの意味も重なって聞こえるからこそ、あの一言は強烈に残る。

そして“見ること”をめぐるこの主題は、パーティーの裏で進行していたある取引で、もっとも露骨な形をとることになる。

“見る力”が競り落とされる

ビンゴカードのような札を掲げる客たちの前で、ディーンが静かに競りを進めていく。 落札したのは、盲目の美術商ジムだった。

彼が欲しがっていたのは、クリスの若さでも身体能力でもない。写真家としての「目」そのものだ。

彼はクリスに、人種には興味がない、ほしいのはお前の目だ、という趣旨のことを告げる。 差別を否定しながら、その人から見る力を奪おうとしている。 本作でもっとも捻れた台詞だと思う。

そして、革張りの椅子に拘束されたクリスが叫ぶあの場面。 キービジュアルにもなった椅子と涙のイメージが、ここで完成する。

催眠をかけられた夜も、彼は同じような椅子に座っていた。 あのときは自分の意思で腰を下ろしたが、今度は身体を固定されている。 同じ構図が二度繰り返されることで、「沈んだ地」が比喩ではなかったことが確定する。

抜け出す方法も、恐ろしいほどよくできている。 クリスは破れたアームレストの詰め物である綿をむしり取り、耳に詰めてスプーンの音を遮断する。 かつて黒人を畑に縛りつけていた綿花。それが支配から逃れるための道具に変わる。

誰が見ることを許され、誰が見ることを奪われるのか。

ピール監督が本作を作った背景

脚本の着想は2008年の予備選挙期間中、ヒラリー・クリントンとバラク・オバマが民主党の大統領候補指名を争う様子を見ていたときに生まれたという。 人種の公民権と女性の公民権が、どちらがより長く待たされてきたかという形で対立させられていく。その光景が、人種とジェンダーを重ねて考えるきっかけになったとピール監督は語っている。

下敷きになったのは『ローズマリーの赤ちゃん』と『ステップフォード・ワイフ』。ジェンダーを扱ったホラーの構造を、人種に置き換えるという発想だ。

「黒人の大統領が生まれたのだから、差別はもう終わった」。そんな空気を、彼は“ポスト人種社会という嘘”と呼んだ。

そんな時代背景の中で生まれた『ゲット・アウト』は、「差別は露骨な形でしか存在しない」という思い込みそのものを揺さぶってくる。

印象的なのは、アーミテージ家の人々が自分を差別主義者だとは露ほども思っていないところだ。

彼らは悪意ではなく、無自覚な善意で人を搾取している。 ピール監督自身、この物語の怪物は個人ではなく社会とシステムのほうだという趣旨のことを語っている。その視点に、この映画の本質的な恐怖があると思うし、それは人種問題だけでなく差別全般に言えるのだと思う。

なお本作は、製作費約450万ドルに対して世界興行収入約2億5,300万ドルを記録した。 第90回アカデミー賞では作品賞・監督賞・主演男優賞・脚本賞の4部門にノミネートされ、ピール監督が脚本賞を受賞している。

日本人として観るときに感じること

この映画はアメリカ社会の問題を扱っているが、決して他人事ではない。

パーティーの場面に一人だけ混じっている日本人ゲスト、田中の存在がそれを突きつける。

彼はクリスに尋ねる。
アフリカ系アメリカ人であることは、現代社会において有利か、それとも不利か。

白人ばかりの集まりの中で、彼だけがアジア人だ。にもかかわらず、そのまなざしは他のゲストたちと完全に同じ側にある。 自分がマイノリティであることは、別のマイノリティを「属性」として値踏みすることを、まったく妨げていない。

日本人として観ていて、ここは妙に居心地が悪くなってしまった。

「褒めているつもりで属性で括る」
「差別ではないと思いながら違和感のある言葉を使う」

そうした経験に、覚えがある人も多いのではないだろうか。

本当に怖いのは“観終わった後”

ホラーはしばしば現実の恐怖を描くための手段として使われる。この作品はその典型だろう。

説明ではなく「体験」として差別を描くことで、観客の内側に問題を提起する。

そしてこの映画が本当に怖いのは、
スクリーンの中だけで終わらず、観終わった後の自分の中に問題が残ることだ。

善意の顔をしたものほど、その正体に気づくのは難しい。

自覚のある差別は最悪だ。でも、自覚のない差別も、同じくらいタチが悪い。
観終わってから、自分の言動には気をつけたいと思った。

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