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⚠️ ネタバレに関するご注意
この記事には映画『ファニーゲーム』の核心に触れるネタバレが含まれています。
未見の方はご注意ください。
観終わったあとに、すっきりとした満足感は全く残らない。
むしろ、「なぜ自分はこれを最後まで観てしまったのだろう」。そんな後悔にも似た居心地の悪さが胸にずっしりと残る。
ミヒャエル・ハネケ監督の『ファニーゲーム』(1997年・オーストリア)は、おそらく意図的に、観客をそういう場所へ連れていく作品だ。
公開から年月が経った今もなお語り継がれ、2007年にはハネケ監督自身の手で、アメリカ版『ファニーゲームU.S.A.』がほぼ同じ構図で撮り直されたことでも知られている。
作品情報
- 娯楽としての爽快感より、観たあとに考えさせる映画を求める方
- 映画というメディアそのものへの問いかけに関心がある方
- 暴力を「観る」という行為について考えてみたい方
- 後味の良さよりも、心に引っかかる作品を求める方
※暴力的な場面や、救いのない展開が苦手な方はご注意ください。
あらすじ(ネタバレなし)
湖畔の別荘へ休暇に訪れた、ごく平穏な一家。
そこへ、白い服に身を包んだ礼儀正しい二人の青年が訪ねてくる。
卵を分けてほしい、という何でもない用件から始まり、その来訪はやがて、一家を巻き込む理不尽としか言いようのない事態へと転がっていく。
筋書きそのものはシンプルだ。
けれど、本作の核心は、起きる出来事の派手さではなく、「どう見せるか」「どこを見せないか」という、語り口の側に潜んでいる。
残酷さを煽る映画というより、残酷さを観たがる私たちの願望を、そのままこちら側へ返してくる映画と言ったほうが近い。
“見せない”ことで残る、後味の悪さ
まず印象的だったのは、決定的な暴力の多くが画面の外で起こることだ。
観客はその瞬間を直接見ることはなく、結果や気配だけを受け取ることになる。
通常のスリラーであれば、緊張のあとには解放が、恐怖のあとにはカタルシスが用意されているものだ。
ところが本作は、それを巧みに奪ってしまう。
期待した展開がはぐらかされ、感情の行き場が宙づりのまま放置される。
観終わってもなお落ち着かないのは、この消化不良が意図的に設計されているからではないか、と感じた。
「見せない」のに、強烈に残る。いや、「見せない」から、むしろ強烈に残るのか。
そこに、本作の暴力表現の特徴がある。
“こちら側”に向けられる視線
本作には、犯人の一人がふと画面のこちら側、つまり観客に向かって視線を投げかけたり、同意を求めたりする場面がある。
問いかけるような、こちらの反応を確かめるような、あの不意のコンタクト。
私はあの瞬間、「あなたも、この続きを観たいのでしょう?」と問われているような感覚になった。
私は物語を安全な客席から眺めていたはずなのに、いつのまにか出来事の一部に、犯人の側へと組み込まれてしまっている。
被害者でも傍観者でもない。共犯者として。
「観たがっている者」として犯人に名指しされる。
その落ち着かなさが、この映画の不穏さの中心にあるのかもしれない。
暴力を「観る」私たちは、何者なのか
ここで考えたくなるのが、なぜ観客にここまで居心地の悪い立場を与えるのか、ということだ。
一般的なスリラーでは、観客は安全な場所にいる。
登場人物が恐怖にさらされても、観客自身が傷つくことはない。
むしろ、緊張し、驚き、恐怖を感じることそのものが、映画を楽しむ体験になる。
もちろん、それ自体が悪いわけではない。
私たちはフィクションだと理解したうえで、現実では味わえない恐怖を安全に体験しているのだから。
けれど『ファニーゲーム』は、その構造そのものを突いてくる。
「あなたは、いま何を観ているのか」
「そして、なぜ観続けているのか」
そう問い返されることで、観客は単なる鑑賞者・部外者ではいられなくなる。
暴力そのものだけではなく、暴力を「観るもの」として消費している自分自身まで意識させられる。
だからこそ、この映画は観ている最中はもちろん、観終わったあとにも嫌な感覚を残すのだと思う。
“巻き戻し”が突きつけるもの
本作には、物語の流れそのものを覆してしまう、メタ的な仕掛けが用意されている。
一家がようやく反撃に出て、観客が思わず安堵しかけたその瞬間。犯人がリモコンを手に取り、映画そのものを巻き戻してしまうのだ。
安堵ごと取り消される、まさに「ルール違反」のような場面である。
ここで起きているのは、映画というメディアそのものへの問いかけだと私は受け取った。
私たちはフィクションの中で、都合のいい結末や正義の勝利を当然のように期待する。
「最後には何とかなるだろう」
「主人公側が勝つだろう」
そんな暗黙のルールを、観客は知らず知らずのうちに求め、受け入れている。
けれど本作は、その期待を満たす義務などないのだ、と冷静に告げてくる。
カタルシスを与えないことそのものが、この映画の仕掛けなのだ。
そして、そこで突きつけられるのは、
「物語は本当に、私たちが望む形で都合よく動くべきものなのか」
という問いなのだと思う。
“理由”を語らない悪意
もう一つ印象に残るのは、加害する側の動機がほとんど説明されないことだ。
金銭のためでも、生い立ちのせいでも、明確な恨みのためでもない。
観客が安心するための「納得できる理由」が、最後まで提示されない。
白い服という、むしろ無垢さを思わせる装いも、その不可解さを際立たせている。
理由がわかれば、私たちは恐怖を理解の枠に収め、距離を取ることができる。
「この人物には、こういう過去があったから」
「被害者にも、落ち度があったのだから」
そう説明されれば、少なくとも理解することはできる。
けれど理由が示されないとき、理不尽な暴力は理解できないものとして残る。
「なぜ?」に答えがない。
だからこそ、それは「いつ、誰の身にも起こりうる理不尽なもの」として、不安がまとわりつくように残り続ける。
本作の怖さは、説明されないことそのものに宿っている。
「胸糞映画」だけでは終わらない
『ファニーゲーム』は、しばしば「胸糞映画」「不快な映画」といった言葉で語られる。
実際、観ていて楽しい作品ではない。いや、終始理不尽で不快だといえる。
けれど、それだけで片づけてしまうと、この映画が仕掛けているものを取りこぼしてしまうように思う。
この作品が不快なのは、単に暴力的だからではない。
自分自身が、その暴力を「観る側」にいることを突きつけられるからだ。
映画の中の暴力を安全な場所から眺め、緊張し、恐怖を感じ、そして「娯楽として」消費する。
その構造に、映画そのものから突然スポットライトを当てられる。
だから、この映画を観ているとき、スクリーンだけを見ていればいいわけではなくなる。
スクリーンを見ている自分自身まで、意識させられてしまう。
アメリカ版『ファニーゲームU.S.A.』との関係
監督が2007年、ほぼ同じ構図でアメリカ版『ファニーゲームU.S.A.』を撮り直したという事実も、この作品を考えるうえで示唆的だと思う。
なぜ同じものを、もう一度作る必要があったのか。
本作の批評の矛先がどこへ向いていたのかを、それとなく語っているようにも感じられる。
もちろん、2007年版を観たからといって1997年版の答えが一つに決まるわけではない。
むしろ、同じ仕掛けが別の場所で繰り返されること自体に、意味を見出せるのではないか。
まずはオーストリア版を観て、その「形」が別の場所で繰り返される意味を考えてみるのも面白いかもしれない。
おわりに
『ファニーゲーム』は、「胸糞」という一言では括りきれない作品だった。
描かれる出来事以上に、それを観ている自分の姿勢を意識させられる。
そういう、鏡のような居心地の悪さがある。
楽しめたか、と問われると答えに詰まる。
けれど、観てよかったかと問われれば、「よかった」と答えられる。それだけ深く考えさせられたからだ。
観終わって考えたのは、映画の中で何が起きたのかだけではない。
「私は、なぜ最後まで観たのだろう」
私自身は暴力には絶対に反対だし、まったく望んでもいないつもりだ。
けれど、この映画を自分で選び、最後まで観たということは、暴力を娯楽として消費していたということなのだろうか。
暴力をゲームとして楽しむ彼らに、私は嫌悪を感じていた。
では、嫌悪した彼らと、それを観ていた私のあいだに、どんな差があったのだろうか。
『ファニーゲーム』が最後に残すのは、恐怖そのものではなく、「観る」という行為への問いなのかもしれない。
安心できる結末や明快なカタルシスを求める方には、つらさが先に立つだろう。その意味で、人を選ぶ作品であることは間違いない。
それでも、観たあとに誰かと語り合いたくなる。
そんな余韻の大きな一本だった。
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