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⚠️ ネタバレに関するご注意
この記事には映画『関心領域』のネタバレが含まれています。
未視聴の方はご注意ください。
「何も起きない」映画が、これほど恐ろしい理由
序盤から、「音だけが真実を語っている」ことに気づく。
青空の下、子どもたちが庭で笑い声を上げている。プールにはしゃぐ姿、食卓を囲む家族、夫の誕生日を祝うサプライズ——映像だけ見れば、どこにでもある豊かな家族の日常だ。
だけど、耳が何かを拾い続ける。銃声。くぐもった声。窓の外の煙突から絶え間なく上る黒い煙。
「農場でも隣にあるのかな」と思いたい気持ちは、すぐに打ち砕かれる。1945年、この屋敷の壁一枚向こうはアウシュビッツ強制収容所だった。
映画『関心領域』(2023年、ジョナサン・グレイザー監督)は、その事実を知っている観客と、知らないふりをして生きている登場人物の間に、埋めがたい溝を作り出す。そしてその溝は、見ているうちに別の問いに変わる——「自分は、見て見ぬふりをしていないか」と。
- 「悪の凡庸さ」という言葉の意味を、肌で感じてみたい人
- 映像よりも「音」が語る、新しい映画体験を求めている人
- 自分の「無関心」が、何によって作られているか考えたい人
作品情報
2023年製作、アメリカ・イギリス・ポーランド合作。監督・脚本はジョナサン・グレイザー(『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』)。イギリスの作家マーティン・エイミスの同名小説を原案に、2年のリサーチを経て完成したという。
主演はクリスティアン・フリーデル(収容所所長ルドルフ・ヘス役)、ザンドラ・ヒュラー(妻ヘートヴィヒ役)。第76回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞、第96回アカデミー賞では国際長編映画賞と音響賞の2部門を受賞した。
あらすじ
1945年。アウシュビッツ強制収容所の所長ルドルフ・ヘスとその妻ヘートヴィヒは、美しい花が咲き誇る庭とプール付きの屋敷で、5人の子どもたちと穏やかな生活を送っている。
妻は「夢の家」と称して庭の手入れに精を出し、友人を招いてガーデンパーティーを開く。夫はキャリアアップのための会議に出席し、家族と誕生日を祝う。
ただし、屋敷のすぐ裏は収容所の壁だ。
その壁の向こうで何が起きているかを、映画は一度も映さない。音だけが聞こえてくる。
この映画の最大の「仕掛け」
ホロコーストを扱った映画は数多い。しかしその多くは、被害者の苦しみや加害の残酷さを「直接見せる」ことで衝撃を与えてきた。
『関心領域』は真逆のアプローチを選んだ。
収容所の内部は一切映らない。観客に与えられるのは、壁の外から聞こえてくる音だけ。遠くから届く銃声、機械の低い唸り、言葉として聞き取れない何かの声、煙突から立ち上る黒煙。
この「見せない」選択が、奇妙なことに、通常のホラーや戦争映画よりも深い恐怖を生み出す。なぜなら、観客は「知っているから」。
その想像は、映像よりも残酷で、しかも自分の中で生まれてしまう。
そして同時に、観客はヘス一家の視点を強制的に共有させられる。彼らと同じように「壁の向こう側が映らない場所」から映画を見続けることで、「見ないことに慣れていく」という体験を知らず知らずのうちにさせられる。
このアプローチが、アカデミー賞で「音響賞」を受賞した理由なのではないか。この映画における「音」は効果音ではなく、映画の主役に思える。
ヘートヴィヒの「夢の家」とは何か
この映画の実質的な主人公は、妻のヘートヴィヒかもしれない。
彼女はこの場所での生活を心から愛している。整えられた庭、子どもたちの笑い声、社会的地位——それは彼女が長年夢見てきた「豊かな生活」の実現だ。
夫が異動を命じられたとき、ヘートヴィヒは「私は子どもたちとここに残る」と言い放つ。
それは「知らなかった」のではなく、「知ろうとしなかった」という選択だ。
「幸せな家族の暮らし」を守るために、何十万人もの命が奪われている現実を、完全に自分の「関心領域」の外に置いている。
これは特殊な悪人の話ではない。人は自分の生活の豊かさのために、不都合な現実を「見えないもの」にすることができる。
情報が溢れている時代において、「知らない」はしばしば“選択の結果”になる。
リンゴの少女が象徴するもの
映画の中盤、映像はサーモグラフィへと切り替わる。
夜の闇の中、一人の少女が収容所の周辺を回りながら土の中にリンゴを埋めていく。それは収容所で飢えている労働者たちへの食べ物だ。
彼女は具体的に誰かはわからず、人間というより「善意そのもの」のように映し出される。
しかしその後、リンゴをめぐる争いと銃声が響く。善意はシステムに回収され、無力さを露呈する。
ヘス一家の「無関心」と、この少女の「関心」。しかしその「関心」さえも、この巨大な構造の中ではあまりにも小さく無力だ。
ラストシーンの二重の時間軸
ルドルフが廊下で吐き気を覚える。その瞬間、映像は現代へと切り替わる。
そこに映るのは、現在のアウシュビッツ博物館。清掃員がガラスケースを静かに磨いている。
その中には、犠牲者たちの遺品が積み上げられている。
それは、かつてここで起きていたことを「日常」として処理していた側の姿と、あまりにもよく似ている。
映画の問いは過去ではなく現在に向けられている。
人間は慣れることができる。何にでも。
「関心領域」というタイトルの意味
「関心領域」とは、ナチスがアウシュビッツ周辺を指すために使った言葉だという。
しかしこの映画では、それは心理的な境界を意味する。
自分が関心を持つ範囲だけが現実となり、それ以外は存在しないものとして扱われる。
そしてその問いは、観客に向けられている。
あなたの「関心領域」はどこまでか。
「怖い」ではなく「居心地が悪い」映画
この映画にはジャンプスケアも残酷描写もほとんどない。
それでも観終わった後、胸に重いものが残る。
それは、スクリーンの中の出来事ではなく、自分の内側に同じ構造があると気づいてしまうからだ。
「怖い」ではなく、「居心地が悪い」。
その感覚こそが、この映画の本質だと思う。
エンドロールの音を聞き終えたとき、自分が今何に「関心を持っていないか」を考えずにはいられなかった。
※ホロコーストに関する歴史的事実に言及していますが、特定の政治的立場を支持する意図はありません。
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