※本記事にはプロモーション(広告)が含まれています
⚠️ ネタバレに関するご注意
この記事には映画『クロース』の核心に触れるネタバレが含まれています。
未視聴の方はご注意ください。
思春期の記憶が、静かに痛み出す映画
鑑賞後、涙が出たわけではない。むしろその逆で、感情がどこにも行き場を見つけられないまま、ただぼんやりとスクリーンを見つめていた。映画が終わっているのに、何かがまだ続いているような、奇妙な時間があった。
ベルギー映画『CLOSE/クロース』(2022年、ルーカス・ドン監督)。派手な演出も、わかりやすい感情の爆発もない。それなのに、静かに、確実に、見ている人間の何かを揺さぶる。
第75回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞し、アカデミー賞国際長編映画賞にもノミネートされた本作は、「13歳の少年ふたりの友情」を描いた作品だ。しかしそれは単純な「友情映画」ではない。
作品情報
- 2022年/ベルギー・フランス・オランダ合作
- 監督・脚本:ルーカス・ドン(『Girl/ガール』でカンヌ新人監督賞受賞)
- 第75回カンヌ国際映画祭 グランプリ受賞
- アカデミー賞 国際長編映画賞ノミネート
主演のレオ役はエデン・ダンブリン、レミ役はグスタフ・ドゥ・ワエル。ふたりとも本作が俳優デビュー作。日本では2023年7月に公開。本作は監督自身の10代前半の実体験と、心理学者ニオベ・ウェイの「男子の友情に関する研究」に着想を得て制作された。
- 「社会規範」について、考えたい人
- ベルギーの美しい田舎風景を見たい人
- 自分の「思春期」を思い出したい人
あらすじ
13歳のレオ(エデン・ダンブリン)とレミ(グスタフ・ドゥ・ワエル)は、花農家を営むレオの家の近くで育った幼なじみだ。
学校でも放課後でも、夜さえも一緒にいる。ふたりは花畑を駆け回り、同じベッドで眠り、互いのオーボエの演奏を聞いたり、即興の物語を語り聞かせたりする。
ふたりでひとりのような、互いの時間を共有するその関係に、特別な名前はなかった。
中学に進学した日、クラスメートの女子がふたりに聞く。
「付き合ってるの?」
笑いを含んだその問いは、レオにとって小さな棘のように刺さった。それから彼は周囲の視線を意識し始める。レミへの接し方に戸惑い、距離を取るようになる。アイスホッケー部に入り、別のグループの男子と行動するようになる。ふたりの関係は、少しずつ崩れていく。
「付き合ってるの?」という問いの暴力性
この映画で最初に世界が変わるのは、あの一言の瞬間だ。
悪意はなかったのかもしれない。ただの好奇心だったのかもしれない。それでもその言葉は、それまで名前のなかった関係に「意味」を与えてしまった。
名前のないものに、無理やり名前をつけられること。それは時に暴力になる。
レオが感じた戸惑いは、「レミが嫌いになった」からではない。「周りの目が気になった」からだ。「普通の男の子」として振る舞わなければならないというプレッシャーが、彼を変えた。
アイスホッケーに打ち込み、興味もないサッカーの話に相槌を打ち、レミとは別の方向を向いて帰る。それはすべて、「普通でいなければ」という13歳の子どもの切実な適応行動だった。
誰だって、覚えがないだろうか。思春期のあの頃、「みんなと同じであること」を求められる「空気」。その静かな圧力、恐怖を。
グループの一員になると、個としての自分が消えていくことがある。それは必要なことかもしれないけれど、恐ろしいことでもある。ある考え方に純化していくことでもあるし、自分が誰だかわからなくなってしまうことでもある。
「Close」という言葉の二重構造
原題「Close」には、二つの意味が重なっている。
- 親密である(close)
- 閉ざす(close)
レオとレミが互いに対して持っていた距離の近さ。
もうひとつはレオがレミに対して心をシャットアウトしていく過程。
そしてレミが自分の部屋のドアに鍵をかけ、最終的に世界から閉じていく様。
監督ルーカス・ドンは、映画の冒頭15分を「ふたりのユートピア」として描いたと語っている。クローズアップで撮影されたそこには、花畑の光と風と笑い声が満ちている。
その「近さ(close)」が損なわれていくにつれて、映画は少しずつ寒くなっていく。夏から秋へ、花が咲き誇る季節から茎が倒され農地が剥き出しになる季節へ。
ベルギーの風景が、ふたりの関係の変化を体現していく。この季節と風景の移ろいを使った演出が、説明台詞ゼロで観客の感情を誘導していく。「映像」で語る映画の力が、ここにある。
「視線」が語るもの
この映画の演出で特に印象的なのが、「視線」の使い方だ。
ふたりが親密だった頃、レオがレミを見ると、レミもレオを見返していた。視線が行き交っていた。
しかしレオが距離を置き始めると、レオからレミへの視線は一方通行になる。校庭の向こうにいるレミを、レオはずっと目で追っている。でも、レミからは視線が返ってこない。
そしてレミが逝ってしまった後。今度はレオが、レミの母親ソフィを同じように見つめ続ける。
群衆の合間から、葬列から、練習リンクから。その視線には、永遠に返ってこない何かを求めるような絶望が滲んでいる。
それは、ソフィも同じだったのかもしれない。
レオはソフィを通してレミを見ており、ソフィはレオを通してレミを見ている。ふたりは互いに、失ったものの面影を相手に重ねている。
言葉では一切説明されないこの「視線のズレ」が、後半の静かで痛切なドラマを支えている。
「誰も悪くない」という構造
この映画が残酷なのは、「誰も悪者ではない」からだ。
レオはレミを嫌いになったわけではない、ただ「普通でいたかった」だけだ。その気持ちは、思春期を経験した人間なら誰でも理解できるだろう。
クラスメートも、直接的な暴力をふるったわけではない。ただ「付き合ってるの?」と聞いただけだ。
大人たちも気づかなかっただけで、誰も「悪意」を持って動いていない。
それなのに、取り返しのつかないことが起きた。
「悪いのは誰か」と問うても、答えが出ない構造。
つまりこれは、個人の問題ではなく、「空気」が人を追い詰める構造の物語だ。
社会が13歳の男子に「親密な友情」を「異常」と見なすプレッシャーをかけていること、「男らしくあれ」という無言の強制が子どもたちを追い詰めていること。そのシステム自体が、静かに告発されている。
私たちが作ってしまった社会規範がいかに暴力性を持って、「男らしさ」や「普通」という見えない圧力で、子どもたちの関係を壊していくのか。それがこの映画の本質だと思う。
レミの死は、「なぜ」がわからないまま残る
この映画は、レミの自死を明示しない。ドアの壊れた取っ手、鍵のかかった部屋。観客はその情報を断片的に受け取り、真実を自分で組み立てる。
レミが遺書を残さなかったことも、重要な設定だろう。それはソフィが「理由を知らないまま」生きることを余儀なくされることを意味する。
「なぜ」という問いに永遠に答えが出ない苦しみは、ソフィだけでなく観客も一緒に引き受けることになる。
映画が終わっても「なぜ」がわからない。その余白が、この映画の最も正直な部分かもしれない。現実の喪失も、そういうものだから。
本作はレミの死を直接的には描かない。観客は断片的な情報から、それを理解するしかない。
花畑をひとりで走るレオ
映画の最後、レオはひとりで花畑を走る。冒頭でレミとふたりで一緒に走り抜けた、楽園のようだったあの場所を。
隣にレミはいない。振り返っても、レミの姿は見えない。
もう、どこにもいない。
しかしレオは走る。前を向いて。それだけだ。
このラストは、「癒し」でも「救済」でもない。でも「絶望」でもない。
ただ、失われた何かを抱えたまま、それでも生き続けることの、静かな宣言のように見える。
この映画は、記憶に触れる
この映画は、観客の中にある「過去」に触れてくる。
「CLOSE」という言葉の意味を考えながら、自分の過去を掘り返した。誰かを遠ざけた記憶。「普通でいなければ」と思って、何かを犠牲にした記憶。
あの頃は気づかなかったけれど、誰かを傷つけていたかもしれない記憶。
責めるわけでもなく、答えを与えるわけでもなく、ただ静かに問いかけてくる。
あなたにも、覚えがあるでしょう? と。
104分の映画が終わり、花畑にレオがひとり残る。その映像が、まだ目の奥にある。
映画が終わっても、それが残り続ける。
※本作は自死を扱う内容を含みます。鑑賞の際は公式サイトの注意喚起をご確認ください。
📚 関連記事



コメント