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⚠️ ネタバレに関するご注意
この記事には映画『異端者の家』のネタバレが含まれています。
未視聴の方はご注意ください。
ヒュー・グラントが怖い
これは「優しい人に招かれて、帰れなくなる映画」だ。
ヒュー・グラントといえば、ロマンティック・コメディの帝王で『ノッティングヒルの恋人』『ブリジット・ジョーンズの日記』『ラブ・アクチュアリー』など、あの温かな笑顔、ぎこちない紳士ぶり、どこか間の抜けた愛嬌。それがヒュー・グラントというブランドだった。
それなのに、玄関のドアが開いた瞬間のあの笑顔が怖い。
「どうぞお入りください」と言いながら、すでに扉が閉まっている。その笑顔が「親しみやすいもの」として脳に刻まれているからこそ、それが徐々に凶器に変わっていく過程が、じわじわと恐ろしい。
映画『異端者の家』(原題:Heretic)は、単純に「怖い映画」ではない。
「考えさせる映画」でありながら、じわじわと恐怖が滲み出してくる。その独特なバランスによって、観終わった後もさまざまな問いが頭に残り続ける。
基本情報
2024年製作、A24配給。監督・脚本は『クワイエット・プレイス』の脚本コンビ、スコット・ベック&ブライアン・ウッズ。主演はヒュー・グラント(リード役)、シスター・バーンズ役にソフィー・サッチャー、シスター・パクストン役にクロエ・イースト。
トロント映画祭でワールドプレミアを飾り、ヒュー・グラントの怪演が大きな話題を呼んだ。『クワイエット・プレイス』を手がけたコンビが「音ではなく言葉」で恐怖を作り出したという点も注目された。
- 「信仰」という言葉の意味を、肌で感じてみたい人
- 映像より“会話”で追い詰められる恐怖を味わいたい人
- 観終わった後も、答えの出ない問いを抱え続けたい人
あらすじ
末日聖徒イエス・キリスト教会(いわゆるモルモン教)の宣教師、少し不安げで柔らかい物腰のシスター・パクストンと、信仰に揺るぎない自信を持つしっかり者のシスター・バーンズは、布教活動のため森の中の一軒家を訪れる。
玄関から現れたのは、リードという初老の紳士。気さくで穏やかで、「妻がブルーベリーパイを焼いているところだ」と二人を家に招き入れる。
布教を始めようとすると、リードは「どの宗教も真実だとは思えない」と持論を語り始める。最初は知的な議論のように見えたそれが、少しずつ不穏な方向へと流れていく。そして気づいたとき、玄関の鍵は閉まっており、携帯の電波もつながっていなかった。
「言葉による恐怖」
この映画には、わかりやすい怪物は出てこない。幽霊も超常現象も、少なくとも序盤には存在しない。あるのは一軒家と三人の人間、そして延々と続く会話だ。
しかし、その会話が怖い。
リードの宗教批判は単に「神など存在しない」という粗雑な無神論ではない。一夫多妻制の「啓示」が社会的圧力によって撤回された経緯など、歴史や構造に踏み込み矛盾を突き、各宗教の本質的な構造を分析し、「信仰」という行為そのものの起源を問い続ける。「音楽も宗教も、すべてパターンの反復だ」。その論は完全に正しいわけではないが、完全に間違っているとも言い切れない。
そして気づく。
「なるほど」と思っている自分に。
宗教に馴染みの薄い観客ほど、この違和感に飲み込まれるのではないか。反論できない登場人物だけでなく、「自分も言い返せないかもしれない」という不安こそが、この映画の居心地の悪さ・恐怖の一つになっている。
リードは「信仰の歪んだ鏡」
物語が進むにつれ、リードの正体が明らかになる。彼の家の地下には複数の女性が監禁されていた。
宗教を否定しながら、彼自身が「教祖」になっていた。
人を信じ込ませ、従わせ、支配する。その構造は、彼が批判していた宗教と何も変わらない。
「信仰の欺瞞」を語りながら、その欺瞞と全く同じことをしている。「宗教は支配のツールだ」という彼の主張は、正しいかどうかはともかく、少なくとも「彼自身がその支配の実践者である」という事実によって、完全に自己矛盾している。
リードは「信仰を持たない理性的な人間」でも「信仰の否定者」でもなく、
「信仰の最も歪んだ形を体現した人間」、
“信仰の暴走”そのものだった。
「BELIEF(信仰)」と「DISBELIEF(不信仰)」の罠
この映画のポスタービジュアルにも、「BELIEF」と「DISBELIEF」という言葉が書かれた二つの扉が描かれている。
リードは二人に「どちらかの扉から出るしかない」と言う。 この設定は、一見「信仰か不信仰か」という二択のように見える。
しかし映画を観ていくと、この二択は偽りの二択だと気づく。リードが設定したゲームのルールそのものが罠だった。「信仰か不信仰か」という問いに「どちらかを選ばなければならない」と思わせること自体が、リードの支配の一形態なのだから。
本来の信仰は、他者に「二択を迫られる」ものではない。それは自分の内側から生まれるものであり、他者の論理によって「論破」されるものでも、「証明」されるものでもない。
信仰とは「議論に勝つこと」でも「全てを説明できること」でもなく、もっと個人的な何かだ、という示唆として機能している気がする。
この映画では、「選ばされること」そのものの危うさが描かれている。
祈りの意味とは何か
パクストンがリードに言う「祈りに効果はないと科学的に証明されている。でも、誰かのことを思って祈るという行為は美しい。たとえあなたのような人が相手でも」
このセリフが、この映画全体の「着地点」だと思った。 「効果のないことに意味がある」という逆説。それは宗教の問いに対する、一つの誠実な答えだと思うから。
信仰が「正しいかどうか」「証明できるかどうか」という問いに対して、「他者を思う気持ちそのものが美しい」という別の問いで応えている。
これはリードを「論破した」わけではない。「論破すること自体を手放した」という選択だ。
リードのゲームのルール「信仰を証明してみせよ、できなければ偽物だ」に乗ることを拒否して、「信仰とは証明するものではない」という地点に立った。その姿勢が、この映画の最も静かな、しかし最も重い「答え」だと思う。
祈りに効果はないのかもしれない。それでも、人のために祈る行為には意味がある。
「効果があるから祈る」のではない。
「祈りたいから祈る」それが信仰だ。
ヒュー・グラントの怪演
本作を語るうえで、ヒュー・グラントの存在は決定的だ。
玄関でドアを開けた瞬間の親しみやすい笑顔。ブルーベリーパイを語るときの楽しげな口調や表情。これらすべてが、ヒュー・グラントという俳優の過去の印象と共鳴しながら「安心感」として機能する。
だからこそ、それが崩れたときの恐怖が大きい。
ロマコメの王子が「論破おじさん」になり、「支配の教祖」になり、最後には「誰より孤独な存在」になっていく。
彼が積み上げてきたキャリアのイメージが、この役にリアリティの層を加えている。
「悪役」として描かれていながら、どこかリードには「かつて何かを信じようとして、裏切られた」という傷が見えるような気がする。
彼が宗教を批判するのは、理性的な無神論者だからではなく、「信じることを切望しながら信じられなかった者」の怒りが形を歪めたからではないか。そう感じさせる影が、ヒュー・グラントの演技の中にあると思った。
問いを持ち帰る映画
「信仰とは何か」「信じることと騙されることの違いは何か」「論理的に証明できないものを信じる行為に、意味はあるか」リードが次々と投げかけるこれらの問いは、観客の中にも静かに残り続ける。
ラスト、パクストンのそばに現れた蝶々。あれが本当に奇跡だったのかはわからない。
それでも私は、パクストンとバーンズがお互いを思い、祈り合った心が、あの瞬間につながっていたのだと信じたい。
「信じること」は宗教の専売特許ではなく、人が誰かや何かと関わるすべての場面に存在するからだ。 恐怖の映画として楽しめる部分もあるが、それ以上に「自分が信じているものは何なのか」「それを誰かに説明できるか」という、少し居心地の悪い問いが頭を離れなかった。
ホラーとして観ると拍子抜けするかもしれない。しかし「会話の映画」「思考の映画」として観ると、強く記憶に残る作品だ。
そしてたぶん、この映画の一番怖いところは、
リードの言葉に、一度でも頷いてしまった自分自身だったのかもしれない



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