映画『ニューオーダー』感想・考察|秩序が崩れたとき、善意は何も守れない

映画感想

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⚠️ ネタバレに関するご注意

この記事には映画『ニューオーダー』の核心に触れるネタバレが含まれています。
未視聴の方はご注意ください。

86分で「世界のある真実」を叩きつけられる

最初の15分、これは富裕層の世界を映したドラマだと思う。

豪邸に多くの使用人、着飾ったゲスト、テーブルに並ぶ豪華な料理、幸せそうな花嫁。どこか映画で見たような「セレブの祝宴」の光景。

だが窓の外の煙突から何かが漏れ出るように、画面の端に違和感が積み重なっていく。蛇口から緑に染まった水。遠くから聞こえる叫び声。慌ただしく退席する来客たち。

そして、壁をひとつ乗り越えた瞬間、映画は変貌する。

2020年製作のメキシコ映画『ニューオーダー』は、第77回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞(審査員グランプリ)を受賞した問題作だ。

「胸糞映画」という評が広まり、観た人が一様に沈黙するか怒りを覚えるかのどちらかになるという映画だ。

監督のミシェル・フランコは、「この映画は地獄のようなメキシコの姿を描いているが、その姿は現実とそう変わらないものだ」と語っている。

『ニューオーダー』
原題
Nuevo Orden
監督
ミシェル・フランコ
制作 / 公開
メキシコ・フランス合作・2020年 / 日本・2022年
上映時間
86分
ジャンル
ディストピアスリラー
鑑賞後トーン
救いがない / 衝撃
キーワード
PG12 / 格差社会 / 秩序の崩壊

作品情報

2020年製作、メキシコ・フランス合作。監督・脚本はミシェル・フランコ。主演のマリアン役にネイアン・ゴンザレス・ノルビンド。上映時間は86分。

第77回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞(審査員グランプリ)を受賞した一方、メキシコ本国での公開は激しい賛否を呼んだ。日本では2022年6月に公開。

こんな人におすすめ!
  • 「秩序」は誰のために存在するのか考えたい人
  • 善意が無力化される世界を描いた作品を観たい人

あらすじ

メキシコシティの豪邸で、裕福な家庭の娘マリアンの結婚パーティが開かれていた。政財界の名士たちが集い、花を飾り、シャンパンを傾ける。

しかしすぐ近くの通りでは、貧富の格差に対する抗議デモが暴動に発展しつつあった。

パーティの最中、かつての使用人ロランドが「妻の手術費が払えない」と助けを求めてやってくる。マリアンの家族は彼を追い返すが、マリアン自身は彼を助けようと式を抜け出す。その判断が、彼女の運命を決定づけた。

豪邸は暴徒に襲撃され、殺戮と略奪の現場と化す。その混乱の中で、今度は「保護する」と近づいた軍の一部が、マリアンを誘拐し身代金を要求する。

「秩序の崩壊」を描く淡々とした残酷さ

この映画の演出の最大の特徴は「引いた視点」だ。

冒頭に映る絵画のタイトル
「死者だけが戦争の終わりを見た」

その言葉は、この映画全体を支配するテーマそのものだったのかもしれない。

暴動シーン、虐殺シーン、監禁シーン。どれも過度に劇的に描かれない。カメラは離れた場所から、まるでドキュメンタリー映像のように事態を「観察」している。

その距離感は、観客を安全な場所に置くのではなく、むしろ「傍観者」にしてしまう。誰も止めない、誰も介入しない。その視線の冷たさが、現実の残酷さを突きつけてくる。

「これはホラー映画ではなく、ドキュメンタリーのような何かかもしれない」という錯覚。それがこの映画の最も恐ろしいところだ。

格差、暴動、軍による誘拐ビジネス、汚職、無実の民が処刑される公開絞首刑。これらはメキシコでは、ありえないことではない。フィクションに仕立ててはあるが、ここで描かれていることは、どこかの国で起きていることだから。その現実感が、単純なエンタメとして消費することを許さない。

善意そのものがリスクになる世界

この映画の鋭い仕掛けは、善意が最悪の結果をもたらすという構造にある。

善人であること自体が、リスクになる世界が描かれている。

マリアンの家族は利己的だ。使用人が困っていても冷たく追い返す兄。腐敗した政治家と繋がりのある父。彼らの「悪さ」は映画の前半でしっかりと示される。

一方マリアンは違う。彼女は善良だ。使用人を助けようとし、式の途中で豪邸を出る。その「良いこと」をしようとした行為が、彼女を暴動の安全圏から連れ出し、軍の誘拐グループの格好の標的にする。

皮肉なのは、豪邸に残った者たちも惨劇に巻き込まれるが、マリアンが経験する地獄は、「善意で外に出た」からこそ生まれた別の種類の地獄だということだ。

「善人は救われる」という物語の法則を、この映画は徹底的に否定する。

「善意」は、秩序が崩壊した世界において何も守れない。

その冷徹な宣言がこの映画全体に貫かれている。

革命の先にあるものは「別の暴力」

暴動は、貧しい者たちの怒りから始まる。それは確かに理由のある怒りだ。

しかし映画は、その怒りを決して正義として描かない。暴徒は無差別に暴力を振るい、やがて秩序を完全に破壊する。

そして現れるのが「秩序を取り戻す」と称する軍だ。しかし彼らは救済者ではない。誘拐と身代金要求を行う、もう一つの暴力装置にすぎない。

古い秩序が崩れた場所に現れるのは、新しい正義ではなく、別の支配だ。

権力は空白を嫌う。だから破壊の後には、必ず別の暴力が入り込む。

革命は何も解決しない。この映画の最も冷酷なメッセージがここにある。 怒りから生まれた暴動が、軍による「犯罪ビジネス」に利用されるという構図は、世界中で実際に起きている何かを想起させる。「秩序の担い手が腐敗している」ことは、メキシコだけの問題ではない。

緑という色が意味するもの

映画全体に通底するモチーフとして、「緑」という色がある。 冒頭、蛇口から緑色に染まった水が流れる。暴徒は緑の塗料を全身に浴びせながら街を闊歩する。緑のジャケットを着た人物が象徴的に登場する。そして映画のラストショットには、メキシコの国旗が映る。

メキシコ国旗の緑は「独立」を意味する。赤は「統一」、白は「信仰」。

この映画で緑が最も多く使われるのは、「独立の色」が暴動と破壊の色として機能しているからかもしれない。民衆の「独立」への渇望が、こうした形の暴力として噴出しているのだろうか。

一方でマリアンが着ている鮮やかな赤いドレスは、煤けたグレーと緑に満ちた混乱の中で際立つ。

「統一」の赤をまとった彼女が、秩序の崩壊した世界の中でどれほど異物として浮いているか。その対比が、彼女の悲劇をより視覚的に強調している気がする。

「誰の視点で観るか」

この映画は、観客の立場を揺さぶる。

前半では、富裕層への嫌悪が芽生える。しかし暴動が始まると、その感情は一気に裏切られる。

不機嫌そうにパーティーの準備をしていた使用人が、暴動が始まった瞬間、嬉々として金目のものをバッグに詰め込む姿や、ただその場にいただけの富裕層への不必要で過剰な暴力行為。

その姿には、長年蓄積された怒りよりも、暴力によって解放された欲望の方が滲んでいるように感じた。

「格差への怒り」と「暴力への嫌悪」の間で気持ちが引き裂かれ、どちらに感情移入すればいいのかわからないままに映画は容赦なく進んでいく。そのどちらにも完全には寄り添えない。

この映画には「正しい側」が存在しない。

その居心地の悪さこそ、監督が意図したものかもしれない。「格差社会は悪い、だから革命は正しい」という単純な図式ではない。「暴力に訴えた者が悪い」という単純な図式でもない。どちらも「悪い」かつ「理解できる」という複雑な現実を、この映画は淡々と提示する。

ラストシーンの絶望について

結末に救いはない。

身代金を支払い、解放されるはずだったマリアンは、軍の不正を隠蔽するために射殺される。マリアンの父の友人であった警察官僚トップのビクトルは、癒着した軍の不正隠蔽のため、最後まで主人に忠実だった使用人親子の息子クリスチャンにマリアン殺害の罪を押しつけ殺害、母マルタを暴動の首謀者として公開処刑した。

心が優しくても、善人でも誰も救われない。

そして腐敗した軍や政府は、証拠を焼き捨て、罪を無実の者に押しつけ、新たな「秩序」の担い手として君臨し続ける。

「新秩序(ニューオーダー)」とは、支配者が入れ替わっただけで、搾取の構造は変わらない世界なのかもしれない。

そして、暴力によって生み出された秩序は、より暴力的な秩序を生むということなのだろう。

道徳心や善意など人間が持ち得る美徳は、武力の前では全くの無力である。また、経済力なども無価値であり、富裕層といえど、いとも容易く立場は逆転する。

結局、秩序を失った世界では、武力を掌握した者こそが支配者になる。

これは遠い国の話ではない

格差問題、腐敗した権力、不条理など、これらは程度の差はあれ、世界中どこにでも存在する要素だ。

「秩序が崩壊した場所で起きること」は、この映画とそれほど変わらない。

条件が揃えば、どこでも起きる構造で、今現在どこかで起こっていることだ。

86分という短さにもかかわらず、観終わった後に残るのは重い感情だ。

怒り、絶望、そして拭いきれない無力感。

後味は最悪だ。それでも決して観なければよかったとは思わない。

その厄介さこそ、この映画の正直な感想だ。

予告編

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