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「さがす」という動詞が、この映画の中でいくつも機能している。娘が父を「さがす」。父が自身の着地点を「さがす」。ムクドリが死を「さがす」。娘が父の真実の姿を「さがす」。
そして観客が、見終えた後も答えを「さがす」。それは宙吊りのまま終わる。それがこの映画の形だと思う。
こんな人におすすめ
- どんでん返し系のサスペンスが好きな人
- 家族や介護をめぐる重いテーマを描いた映画が好きな人
- 「善悪では割り切れない人間」を描く作品が好きな人
- 見終わった後も答えを考え続けたくなる映画が好きな人
- 佐藤二朗の新しい一面を見たい人
大阪・西成の下町で、中学生の娘・楓(伊東蒼)と二人暮らしをする父・原田智(佐藤二朗)。仕事もなく金もなく、でも娘と笑って暮らしている、どうしようもないけれど憎めない父親だ。
ある日、父が言う「お父ちゃんな、指名手配中の連続殺人犯見たんや。捕まえたら300万もらえるで」。楓はいつもの冗談だと笑い流す。しかし翌朝、智は姿を消していた。
警察は相手にしない。一人で父をさがし始めた楓は、日雇い現場に「原田智」の名前を見つけるが、それはまったく知らない若い男だった。やがてその男の顔が、指名手配の連続殺人犯・山内照巳(清水尋也)と一致する。
⚠️ ネタバレに関するご注意
この記事には映画『さがす』のネタバレにつながる表現が含まれています。
未視聴の方はご注意ください。
この映画の構造で巧みなのは、時系列を複数の視点から重ねることで、「すでに見たはずの場面」が後半で全く別の意味を帯びることだ。
序盤は父を探す娘の物語として、楓の視点で進む。
しかし中盤以降、父の視点に切り替わり、「なぜ智が消えたのか」という回想が始まる。そこで観客は、自分が「何も知らないまま見ていた」ことに気づく。
「西成の日雇い労働者文化」「難病介護の現実」「自殺志願者SNS」という生々しい社会的文脈が折り重なることで、単なる「どんでん返しスリラー」を超えた射程を持っていると感じた。
複数の「さがすもの」
楓がさがすものは
父の居場所。しかしそれは同時に母の死について、父の真の姿について…「自分の家族の意味」をさがすことでもある。父の真実を知ったとき、彼女は愛を持って糾弾する。
智がさがすもの
ALS(筋萎縮性側索硬化症)を患い死を望む妻の「楽な死」を「さがした」末に、山内に依頼することになった。その後、自責の念と金銭的な計算が絡まりながら、自分自身の「落としどころ」をさがし続ける。
ムクドリがさがすもの
「安らかな死」を望みながら、同時に溢れるエネルギーを持って生きている。「さがしている」のは死なのか生なのか。
智が「道を踏み外した」経緯
智が殺人の協力者になった過程は、彼を単純な「悪人」として切り捨てられなくする。
妻・公子はALSを患い、SNSで安楽死を望む声を上げる。それを察したのか連続殺人犯・山内照巳は智に接触し公子を「楽に逝かせた」。智は山内に言いくるめられ、その後も自殺志願者と山内を引き合わせるSNS運用を請け負うようになる。
「智は根っからの悪人としては描かれていない」
公子を懸命に介護していたり、ムクドリの着替えを手伝いながら泣いてしまう智。300万という計算をしながら、それが「娘のため」という言い訳で成り立っていることを自分でもわかている智。
智が泣く場面は、単純な後悔や贖罪ではないとも読める。「自分が悪いことをした」という認識と、「それでもやるしかなかった」という諦念と、「娘に見られたくない」という恥の気持ちが、同時に流れているような「一切の抑揚を無くす」演技を求められながら、それでも滲み出てくる感情の複雑さがこの映画の核心部分を支えているように感じる。
ムクドリというキャラクター
死にたいと願う難病患者。そう聞けば、公子のような無気力なキャラクターを想像するかもしれない。
しかしムクドリは、飛び降りに失敗し電動車椅子になっても、それで縦横無尽に動き回り、智を罵倒しながら圧倒的なエネルギーを持って存在している。
このキャラクター造形には、重要なメッセージが込められているとも読める。「死を望む人間=無気力で絶望的」という第三者的な先入観への反論として、ムクドリは存在しているのではないか。死を望むことと、生きるエネルギーを持つことは、矛盾しない。その事実を、このキャラクターは体現しているのではないか。
「父親と同じ匂いがする」とムクドリが智に言う場面は、この映画の中で最も静かで、最も重い瞬間のひとつだ。その言葉が何を意味するのか。欠落した父性への渇望なのか、単なる共鳴なのか。それは明確には語られない。そのわからなさが、逆にリアルだ。
「智がさがしていたものは何だったのか」
映画を見終えた後、この問いが頭に浮かんだ。「智がさがしていたものは何だったのか。」
金? 娘の将来? 妻の死への贖罪? あるいは、「ちゃんとした父親」になれなかった自分への救済? おそらくそのどれもが正しく、どれも全部ではない。この映画は、明確な答えを出さない。
智が泣いて、楓も泣いて…
楓はどんな顔をしているか。この映画はある程度の余白を残す。「許した」のか「許せない」のか、あるいはそのどちらでもなく「それでも父親だから」という感情の前に言語化を諦めたのか。
佐藤二朗の「封印」が生んだ演技
片山慎三監督は佐藤二朗をイメージして脚本を書き、手紙を書いてオファーしたという。「一切の抑揚を無くす演技」を求めたそうだ。
「さがす」の佐藤二朗は、これまでの佐藤二朗ではない。コメディにおける独特のリズムと大振りな表現を、徹底的に封じている。それでいて「佐藤二朗でしかない」何かが画面に滲み出ている。あの独特の「ちょっと残念な男の哀愁」が、コメディを離れると、こんなにも切実なものに変わるとは思わなかった。
西成の空気とともに残る映画
通天閣の見える路地、日雇い労働の斡旋所、汚れたアパート。西成という場所が持つリアルな質感が、この映画の嘘のなさを支えている。社会から弾き出された人間を、かわいそうに描くのでも英雄的に描くのでもなく、ただそこに「いる」人間として描く誠実さ。
この映画を見て、「自分が何かをさがしていた」という感覚を覚えた人もいただろう。
何をさがしているか、わからなくてもいい。この映画は、立ち止まって考える時間を与えてくれたのかもしれない。


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