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※本記事はR18+指定作品『哭悲/THE SADNESS』の内容に触れています。暴力・性暴力描写について言及がありますのでご注意ください。
⚠️ ネタバレに関するご注意
この記事には映画『哭悲/THE SADNESS』の核心に触れるネタバレが含まれています。
未視聴の方はご注意ください。
「見たくないのに、目が離せなかった」
観終わった後、しばらく呆然。
恐怖のせいではない。
「嫌悪しているのに、なぜ最後まで観てしまったのか」その違和感に引っかかっていたから。
ロブ・ジャバズ監督の長編デビュー作である台湾映画『哭悲/THE SADNESS』は、ロカルノ国際映画祭でワールドプレミア、ファンタジア国際映画祭で最優秀新人映画賞受賞。「グロすぎて二度と観たくない傑作」と評されることが多い。
その言葉は決して誇張ではないし、同時に「傑作」という評価も間違っていないと思う。
グロ耐性がある人にとっては「とんでもないものを観た」という体験になるし、そうでない人にとってはトラウマ級の作品にもなりうる。
いずれにせよ、この映画は「なんとなく観た」では済まない。
基本情報
本作はコロナ禍をきっかけに、「パンデミックと人間の欲望」をテーマとして制作された作品である。
- グロ耐性がある人
- 心理的にえぐられるホラーが好きな人
- 観終わった後に考えさせられる作品を求めている人
あらすじ
台湾では謎の感染症「アルヴィンウイルス」が長期間にわたって流行していたが症状は軽く、人々は次第に警戒を緩めていた。
しかしある日、ウイルスが突然変異。
感染者は攻撃性・性欲・食欲などの衝動を抑制できなくなり、最も残虐な行為へと駆り立てられるようになる。
しかも恐ろしいのは、理性や罪悪感が残ったままであること。
つまり「やってはいけないと分かっていながら、止められない」状態になるのだ。
そんな地獄絵図と化した台湾の街で、カイティン(レジーナ・レイ)と彼氏のジュンジョー(ベラント・チュウ)は、生きて再会を果たそうと必死に奔走する。
この映画が「ただのゴア映画」ではない理由
本作のゴア表現は確かに強烈だ。
血しぶき、内臓、切断。耐性がある人でも観るのが厳しいシーンは多い。
この映画を単なる「グロい映画」として片付けると、制作者の意図の半分しか受け取れない気がする。
本質はそこではなく、感染者が「泣いている」ことにあるのではないか。
彼らは暴力を振るいながら涙を流す。
罪悪感があり、「こんなことをしてはいけない。したくない」という感情が残っているのに、体が止まらない。
その描写が、ただの怪物として感染者を描いた作品とは根本的に異なるエグさを生み出している。
この「罪悪感はあるのに、止められない」という構造は、ゾンビではなく、むしろ私たち自身が日常的に経験していることだと気づいたとき、この映画が違って見えてくる。
欲望と抑制のせめぎ合いを極端な形で可視化したのが、この映画だ。
アルヴィンウイルスはコロナのメタファーなのか
監督は本作の着想がコロナ禍にあると語っている。
軽症ゆえに警戒が緩む社会、政府の対応の遅さ、無能な官僚の描写、パニック状態での情報の錯乱。これらは現実と明確に重なる。
しかし、この映画は単なるコロナ風刺では終わらない。
重要なのは、ウイルスが「欲望の抑制機能」を壊す点にある。
つまりこの作品は、より普遍的なさらなる問いを突きつけている。
「もし人間が欲望を抑えられなくなったら、どうなるのか?」
作中のセリフ
「欲望を抑えることは、瞬きを我慢するくらい大変なことだ」
この言葉が示す通り、私たちが「普通」でいられるのは、日々その抑制を無意識に続けているからにすぎない。
「哭悲」というタイトルの多重構造
タイトル「哭悲(こくひ)」には、「悲しみ泣き叫ぶ」という意味がある。
英題『THE SADNESS』も、直訳すれば「悲しみ」だ。
しかし、このタイトルにはもう一つの意味が隠れているようにも感じた。
作中では「サディズム」という言葉が登場する。
そして「SADNESS」の「SAD」は、「sadism(サディズム)」の語幹とも重なる。
つまりこのタイトルは、単なる「悲しみ」ではなく、
“欲望と暴力に支配される悲しみ”も示しているのではないか。
感染者たちは快楽に溺れながら、同時に涙を流している。
欲望を満たす恍惚と、罪悪感による苦痛が同時に存在しているのだ。
その矛盾した状態を、『哭悲/THE SADNESS』というタイトル自体が表しているように思える。
だから彼ら感染者は、ただの怪物ではない。
人間の中に元から存在していた何かが、制御不能な形で露出しているだけなのかもしれない。
その描写が、ただのホラー映画には生まれない奇妙な「哀れみ」を引き起こす。
観客は感染者を嫌悪しながら、同時にどこか可哀想だとも思ってしまう。
その相反する感情が、この映画独自の居心地の悪さを作り出し、本質的な恐怖にもつながっているのだろう。
「あなたは、これを観に来た」
本作には「やりすぎでは」と感じる描写が多々ある。
しかし同時に、目が離せなかった自分もいる。
この矛盾こそが、この映画の仕掛けなのかもしれない。
残酷だと思いながらも観てしまう。
目を背けたいのに、次が気になる。
「やりすぎだ、倫理観がない」と批判しても、それを観に来たのは自分だという自己矛盾を、この映画は突きつけてくる。
「これを観に来たのは、あなたです」
感染者が欲望を抑えられないように、観客もまた「見たい」という衝動から逃れられない。
つまりこの映画は、スクリーンの中の狂気だけでなく、観ている側の欲望をも映し出している。
この映画は「愛の物語」でもある
本作の核は、実はラブストーリーでもある。
極限状況の中でも、カイティンとジュンジョーは再会を目指して諦めず懸命に動き続ける。
終盤まで、純粋にその目標が二人を動かす。冒頭のラブラブなシーン、朝のコーヒーを飲む何気ない日常の描写があったからこそ、後の地獄がより残酷に際立つ。
そしてラスト。感染したジュンジョーが、愛と暴言を同時に口にしながら、カイティンに向かう。「愛している」と言いながら、同時に「殺したい」と恐ろしい言葉を投げかける。感染してもなお残った愛の感情が、最も残酷な形で表れるあのシーン。
観た人それぞれに異なる感情を残す終わり方だと思う。
「愛の強さが、最後の人間性として残る」とも読めるし、「愛すら凶器になりえる」とも読める。そのどちらとも取れる余地が、このシーンをより重くしている。
このシーンは、
・愛が最後の人間性として残った
・愛すら暴力に変わる
どちらにも解釈できる。
その曖昧さが、この作品を単なるバッドエンド以上のものにしている。
そしてラスト、階段を上がり、屋上の扉を開けて救援のヘリに向かったカイティン。 扉は閉まり、観客には見えない中、ヘリのミニガンの音だけが聞こえる……。
観客に見せないまま終わるラスト。 観客はその先を想像せざるを得ない
「観る覚悟」が必要な映画
グロ耐性のない人にはおすすめできない。
また、性暴力描写が強烈な点も事前に知っておくべきだと思う。
しかしそのうえで言えば、本作はホラーの中でも明確に新しいことをしている。
「人間の欲望とは何か」
「理性が失われたとき、何が残るのか」
そして何より、
「あなたはこれを、なぜ観てしまったのか」
その問いが、重く残り続ける。
「二度と観たくない傑作」という評価は正しい。
そして同時に、「観てよかった」と思っている自分もいる。
その時点で、もうこの映画の中にいるのかもしれない。



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